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人口史

2010年3月10日 (水)

周防大島、人口2万人切る

 3月10日の中国新聞「内政総合」(P3)の記事の一つである。同じ面には、全国紙でも採り上げられた、地方空港の需要予測達成率で明暗が分かれたことも述べられている(中国地方8空港)。島根県の萩・石見空港は全国ワースト2だったようだが、なお、今後岩国空港の民間での活用が始まればさらに状況は悪化するとの記事も、地元新聞にあった。大阪便、東京便とも4往復を想定していたが、実際には1便のみである。
 周防大島は周防国と安芸国の境目に位置し、幕末期には爆発的な人口増加がみられたところであった。流通の拠点として周辺各地から人々が仕事を求めて押し寄せた(社会増)のが主たる原因であろう。石川敦彦「近世長門周防の人口統計」(山口県史研究3号)では、食料の増産による自然増であるとするが、現実的な分析ではない。
 その立地条件もあって、民俗学者として全国を旅した宮本常一氏と、海をテーマとする歌謡詞で知られる星野哲郎氏の出身地として、記念館が整備されている。
 話を人口に戻すと、ピーク時の1950年代には6万3千人であったのが3分の1以下となり、2004年に4町が合併して周防大島町が誕生した時点からみても2400人以上減少したという。立地条件が変わると、人口動態が大きく変わる例である。
 島根県についてみると、西部の石見国は江戸後期に人口の伸びが停滞し、出雲国との差が大きくなった。出雲国にしても、全国の動向と比較すると、19世紀以降は人口の伸びは鈍化し、これが近代以降の状況につながっている。一藩と藩主の努力ではどうにもならない状況が進行していたようである。
(付記)以後、しばらくは、HPの整備に力点を置きたい。ブログの方は、その状況を報告したり、「日記・コラム・つぶやき」が中心となろう。開設1年半で、ようやくアクセスが1万を超えそうであるが、日々の更新にはネタが必要で、そのためにも充電が必要。http://homepage3.nifty.com/koewokiku

2009年8月14日 (金)

出雲国と石見国の人口から(3)

 宝暦6年(1756)の出雲国の人口は220,094人。対して石見国は259,202人と記録上唯一石見国が出雲国を上回っている。ところがこの前後の記録では2~3万人出雲国の方が多く、この年の記録はなんらかの理由で誤記された可能性が高い。6年前の寛延3年(1750)比で、隠岐国600人増、伯耆国4,000人増、長門国6,000人増、周防国5,700人増という数字と比べても、石見国40,000人増と、出雲国15,000人減はおかしい。言われてみれば誰でも納得がいくであろう。ただ、そこのみをみていると気がつかないこともあろう。
 寛延3年の松江藩については宗門改帳の数字が判明する。出雲国の人口はこれから武士の人口を引き、広瀬藩と母里藩の人口を加えたものである。宝暦12年(1762)の広瀬藩と母里藩の人口を加えたものは27,264人。その12年前の寛延3年の両藩の人口は、出雲国の人口と松江藩の宗門帳のデータから計算して26,748人と500人程度少ない。こうしてみると、宝暦6年の出雲国の人口は、寛延3年からやや増加して242,500人程度と考えられる。
 これに対して石見国の宝暦6年の人口は、浜田藩の延享3年(1746)と宝暦12年の人口、さらには浜田藩跡市組の延享3年、寛延3年、宝暦6年、宝暦12年の人口を勘案すると、225,000人程度となる。当初は単純に逆に書き間違ったとも思ったが、残っている資料からすると以上のようであった。
 そうすると出雲国は寛延3年から8000人増、石見国は5000人増と周辺国と大差がないことになる。このような例は少なかろうが、データを利用する際には数字そのものを吟味しておかないと、実証的な作業のはずが、そうではない結果をもたらしてしまう。

出雲国と石見国の人口から(2)

  寛政10年(1798)は①28,711、②271,667、③248,076、④21,660と、蝦夷地では2倍近くと、20%前後増の②~④より多いが、この後と比べれば序の口である。文化元年(1804)には①45,417と、②~④が微減なのに約6割増加している。北方問題が浮上する中、あるいは蝦夷地での海産物や交易がクローズアップされる中、移住する人が増えたのであろうか。単に統計の精度が高くなったというものではなかろう。出羽、陸奥国は微増である。その後文政5年(1822)に6万人を越え(とはいえこの間はデータがない)、天保の大飢饉で打撃を受けて6万人台前半となるが、その6年後の弘化3年(1846)には7万人を越え、次のデータが明治5年(1872)の12万人台となっている。ちなみに同年の琉球藩の人口は166,789人と蝦夷地(開拓使)を上回っている。
 明治に入り、屯田兵や品種改良により稲作が可能となったことが北海道の人口増加をもたらしたのはいうまでもない。明治30年(1897)の人口は約56万人と4倍以上になった。沖縄県が3倍弱の45万人弱、島根県は6割増の72万弱である。
 本来、この文章は、現在の旧石見国域は明治初年よりも人口が減少しているという点と、古代から近世初頭までの田の面積で比べると、石見国は出雲国の半分しかないにもかかわらず、近世前半までの両者の人口の差は小さかったことから書き始めようとしたもの。島根県域でまとめると、天保の大飢饉の後、全国的に人口増加のペースがアップしたが、その中で島根県とその周辺地域=山陰では人口増加の割合が少なく、それが近代以降も継続していることになる。
 近代以前は独立採算制であったが、それが中央集権化に変化し、国に集められた税金が中央に投資されたこととともに、何が近代以降の地域間格差の原因なのであろうか。

※蝦夷地の人口データについて、補足が必要となった。松江藩のデータで触れているように、各藩から幕府に報告されたデータには、武士が含まれないことと、1807年の蝦夷地の幕府による直轄化以前のデータには、アイヌの人々は含まれないが、蝦夷地全土の直轄化以降は、アイヌの人口を含むということである。1804年段階では東蝦夷のみが直轄で、1822年のデータはその前年に蝦夷地の大半を松前藩に返している。そして再度蝦夷地を直轄化したのは、1855年のことであった(8.20)。

出雲国と石見国の人口から

 表題のことを書こうとしていたら、「蝦夷地」の人口へ目がいってしまった。板倉聖宣氏が代表をつとめる『たのしい授業』で、その人口の推移から蝦夷地とアイヌの問題に対して、これまでの「和人による侵略」という観点とは異なる見方が示されていたことを思い出したのである。本そのものを再確認していないので、こちらの印象と実際の記述に違いがあるかもしれないが、もしそうであれば後で訂正したい。
 『日本人口統計集成』別巻1から①蝦夷地の人口をひろう。次いでその年の②出雲国、③石見国、④隠岐国の人口を記す。8代将軍吉宗の代、享保6年以降のデータが記されている。享保6年(1721)①15,615、②222,330、③207,956、④18,133。出雲と石見の人口の差がこの時点では少ないことから書き始めようとしたが、ここでは、蝦夷地と隠岐を対比してみよう。この二つと島国である⑤壱岐国(19,993)と⑥対馬国(16,476)が人口が2万人から1万5千人の間である。琉球については藩でないので報告資料はない。同じ島国とはいっても淡路国は約12万人、佐渡国は約10万人と状況が異なっている。
  これに対して明治5年の人口は①123,668、②340,042、③259,611、④28,531である。島根県域では別に述べたように隠岐国の人口増加率が一番高く、その背景に日本海水運の発達があり、一方で隠岐国での重要な収入源であった牛馬の飼育の必要性は低下したことを述べた。ところが、その隠岐国とは比較にならないぐらいに蝦夷地の人口が増加しているのである。以前、仙台藩の幕末の人口増加はなぜだろうと思った。三大飢饉の後2つの天明・天保は東国中心でありながら増加しているのが理解できなかったのである。

2009年2月 8日 (日)

近世隠岐における人口と牛馬数の変動

 歴史人口学では、人口と並んで牛馬数も分析の対象となる。各地で作成される村明細帳には戸数・人口とともに牛馬数が記されているからである。
 近世を通じて人口は増加していくが、牛馬数の変動には地域差が大きい。歴史人口学のパイオニア速水氏の紹介した尾張国の例では牛馬数は減少し、その背景として従来の大家族・大経営から、核家族からなる小経営へと中心が移ったことが指摘されている。
 牛と馬の違いもある。出雲国では、牛は1軒あたりの保有数で比べると、平野部より山間部が多く、その差は幕末になるとさらに拡大する。馬は街道沿いで都市的な地域に多いが、後期以降東部で増加し、西部では減少している。江戸中期と幕末の牛馬数は、ともに後者が前者の倍程度、尾張国と違い増加している。
 隠岐国は、今年になって大相撲の十両力士が誕生し、その名も「隠岐の海」としたが、相撲とともにさかんなのが闘牛である。実際に訪れると島前には多くの牛をみることができる。近世にも博労の手により、隠岐から各地へ牛馬が送られていったが、17世紀末と明治初年を比較すると、牛は3割減(3,699→2,593)、馬に至っては半減(2,973→1,395)している。とりわけ島前での減少が目立つ。これに対して人口は17世紀半ば過ぎの15,911人が明治元年には29,731人と2倍近い数字に増えており、出雲・石見より増加率は高い。とりわけ島前の増加率が高い。
 この島前で顕著な人口の増加と牛馬の減少はどのような関係があるだろうか。当然、尾張国とは状況が違う。近世後期は山陰地方への北前船の来航が活発化したことが知られており、従来の牛馬の飼育と輸出に代わって、水運の拠点として商品流通に関わる人々が増えたことが原因だと思われる。

2009年1月29日 (木)

中世の人口増加

 高校日本史では、鎌倉期の二毛作の普及や室町期の定期市の増加(三斎市から六斎市へ)などを取り上げ、その背景として生産力の発展をみているが、近年の歴史人口学は、中世における人口の停滞を主張する。そしてその成果は、小学館版『日本の歴史』7でも取り入れられている。
 確かに、二毛作というのは、秋に蒔いた麦の収穫が5~6月に行われ、その後に稲作を開始するというもので、どこでもできるというものではないようだ。ただ、以前から言われている、10世紀の和名抄と15世紀の拾芥抄の田の面積の数字は、表面上はさほど違いがないが、技術の進歩と肥料の投入により、土地の安定という実質的な面では大きな違いがあったという点は認めてよいのではないか。
 その意味で、歴史人口学で言われるところの奈良時代の人口については、誇大な数字である可能性が強いと思うが、どうであろうか。石見と出雲については、大田文とそれに準ずる史料が残っており、平安末期(12世紀末)の耕地面積がわかるが、それは10世紀の数字の半分でしかない。ところが、実際の土地の面積と大田文の数字の間には数倍のギャップがあることが、益田氏関係資料(永安別符の史料)からわかるのである。

2009年1月 3日 (土)

気温と日本の東西(3)

 年平均気温については、近年の具体的データをみながら考えていく必要がある。というのは、厳冬の年は夏の気温が高くなることが多く、暖冬ならば冷夏になりやすいということも知られている(夏の気温が高いと‥‥冬の気温が‥‥ではない。またこの場合の夏とは北半球側を指している)。ということは各季節、月で比べると、年平均気温の2倍程度の差がみられるのである。 また、気温の根拠となる屋久杉の年輪データは1~2月の気温により成長の幅が決定されるとのことである(屋久杉のデータでは最大6度強の差が見られるが、これは冬の差で、年間では3度強の差にとどまるということ)。
  一方、前島郁雄氏は弘前藩庁の弘前と江戸の記録に基づき、江戸時代は小氷期であったことを述べた。倉地克直『徳川社会のゆらぎ』(日本の歴史11)はこの成果を引用しながら述べられている。とくに①1610~50,②1690~1720、③1820~1850の3期が非常に寒冷であるとされている。①②は屋久島杉のデータと一致するが、③は異なっている。東日本は寒冷であったが、西日本はそうではなかったということであろうか。いずれにせよ、各地域をみるさいには、その地域自身のデータを利用しながら使っていく必要がある。

2009年1月 1日 (木)

気温と日本の東西(2)

  ①の時期は、畿内中心の政権が誕生したのに対し、②の時期になると、西日本では飢饉が続き、聖武天皇の鎮護国家の思想が登場する。そして東国の成長が著しいなか10世紀半ばの平将門の乱は失敗したが、鎌倉幕府が成立する。③この時期に北条氏は西国支配を強めるが反発を受け、幕府が滅亡し南北朝の動乱が続いた。④動乱は京都に室町幕府が成立して終結したが、東国の鎌倉府が自立性を強め、幕府は衰退する。⑤この時期は畿内から東海地方にかけての勢力が中心であったが、最後にどんでん返しで、江戸幕府が成立する。当初は畿内・西国が経済の中心であったが、⑥気温の上昇とともに関東地方が発展し、現在に至るまで西日本の位置は低下している。
 平野部と山間部については、⑤の時期の出雲国では、山間部の人口が停滞したが、⑥になると平野部の人口が伸び悩んだ。とはいえ⑥の時期には機械文明が日本にも成立し、気温のハンデよりも、地域的優位性が優越し、明治以降の人口増加の中心は平野部に移る。

気温と日本の東西(1)

 網野善彦氏には『東と西の語る日本の歴史』という著書があり、日本が2つの国家に分かれる可能性があったことや、東西の文化の違いについて述べられていた。近年は、気温の上下と東西の人口の増減の違いについても明らかにされてきた。
 簡単に言えば、平均気温が低いとその影響の低い西日本中心に人口が増加し、逆に高いと、東日本中心に人口が増加するのである。東日本中心と言えば縄文文化であるが、この時期の気温は高く、海面が上昇したことにより日本列島が形成された。続く弥生時代は気温が低く、西日本中心の新文化が生まれた。それ以後については、以下のとおり。
 ①古墳時代から奈良時代前半にかけては、一時的に気温が上昇したが、全体的には低い時期が多かった。これが②奈良時代後半以降から鎌倉中期までは高い時期が多かった。次いで③13世紀後半から14世紀前半は低い気温が続き、④14世紀後半から15世紀半ばまでは気温は高かった。 そして⑤15世紀後半から18世紀末まで低い気温の時期が多く。⑥19初めから現在に至るまでは概ね気温の高い時期といえる(各時期の気温については鬼頭宏氏『図説 人口で見る日本史』を参照)。
   気温の違いは平野部と山間部にもあてはまり、気温が低い時期は平野部が人口増加の中心で、逆に高いと、山間部の人口が増加する。

2008年11月 3日 (月)

近代以降の人口増加(3)

 19世紀中期以降の島根県域の人口増加率の低さの原因として、天保改革時の人返し令による人口移動の容認を考えて、この文を書き始めた。しかし、明治初年の県外への移動は少なく、やや見当はずれとなった。明治後半以降の原因としては、社会減が自然増を減らしたことが大きいと思われるが、1920年以降は国勢調査のデータがあるので、確認したい。
 19世紀中期以降の原因は特定できないが、その一つに、平均気温の上昇があった。出雲国でも平野部の人口が伸び悩み、逆に山間部の増加が著しい。山間部ではたたら製鉄の発展もあったが、気候面も考えるべきであろう。
 西日本はもともと東日本に比べて平均気温が高く、18世紀後半以降の冷害などにより東日本での生産が減少したのに対し、西日本では長期化せず、その程度も軽かった。これに対し、江戸末期から明治期にかけては気温が上昇する局面に入る。これが、東北や関東の人口増加の原因であったことはまちがいなかろう。
 明治初期の東京遷都により、さらに東日本の地位が向上したことも寄与したであろう。さらに、近代化の進展は都市への人口増加をもたらす。近世には都市の人口増加は、そこに隣接する地域の人口減の原因となったが、明治以降は山陰・北陸といった地域からの人口流出をもたらした(了)。

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