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近世史

2020年4月11日 (土)

延宝六年湊町屋敷帳

 県立図書館の蔵書検索を旧十郡毎にしていたら、「延宝6年 神門郡 町屋敷帳」がヒットした。未知の史料であり、請求すると「湊町屋敷帳」であった。林七兵衛(俗に初代大梶七兵衛)が中心となった荒木浜開拓の中心として設けられた新たな町(湊原新町ともいう)である。天和三年(一六八三)七月に松江藩の役人岸崎佐久次から、神門郡下郡二名と林七兵衛宛の命令書には「西園寄荒木ノ内エ五拾五軒渡り屋敷」とみえるが、延宝六年(一六七八)の屋敷帳には、大小七二軒の屋敷が記され、最大(他の平均の五倍の面積=二反弱)の林七兵衛屋敷のみ御役御免であった。五五軒との違いの原因は不明である。七兵衛が開拓のためこの地に入ったのは延宝五年とされている。
 その立地と構造についてはよくわからないが、「横町東口」二四軒、「東小路面」一三軒、「横町東入口南」七軒、「南通小路」五軒、「観音小路」一〇軒(七兵衛宅あり)、「西灘道」一〇軒、「御蔵道」三軒に区分されている。おおざっぱに言えば、現在の出雲市大社町中荒木・恵比須を東西に走る道沿いに両側町があり、そこから別れた小路があったと思われる。中荒木・大梶の南北方向に観音小路があった。その小路の北側に湊神社と大梶神社がある。一方、中心ロードの南面に、市町によくみられる恵比須神社と知西寺がある。
 横町との表現は道の南側を流れる川との関係であろうか。なお「湊新町」に対して「湊町」の存在が想定できるが、中荒木・四軒家に存在したと思われる。その対岸は杵築南・赤塚であり、ここで川を渡ったのであろう。役所にちなむ「川方」の地名も残っている。

2018年4月28日 (土)

尾氏春秋と地震記事3

 天保一二年閏正月一一日4つ時に久しぶりの大地震。二三日4つ時にも地震。七月一七日夜9つ時に地震。九月二〇日7つ時地震。しばらく空いて天保一五年九月七日8つ時地震。また空いて弘化二年一〇月二日夜8つ時地震。弘化四年三月二四日に信州大地震。6千人余死亡。嘉永二年六月六日8つ時地震。一〇日6つ下地震。嘉永六年二月二日相模国箱根辺大地震。六月晦日8つ半地震。八月二日4つ前地震。一〇月一六日4つ時地震。
 嘉永七年六月一四日夜8つ時上方地震。一五日朝5つ時大地震。一六日暮れまで七三度の大地震。一一月四日朝4つ時地震殊の外長し。五日7つ時大地震。筆者七二才でこれほどの大地震を知らず。七日4つ時大地震。杵築では一〇五軒損ず。地震が続き一二日夜4つ時大地震。
 杵築大鳥井丁第一番ニ大損じ第二番ニ市場村越峠村大工地少々
○五十一軒本倒れ○四十一軒是ハ本倒れ同様作事ニ不掛
○四十六軒半倒れ・卅三軒大損事メて七十一軒  ○同所赤塚村仮ノ宮村ハ村家無之
○西御殿并社中方も山手ニ付候分ハ無候  ○牢籠崎鶩鶇峠損家無之
○楯縫の浦方も無難  
○半里程辰をノ方在ニ継ヶ崎と申所本倒れ半倒れ卅軒有之畑三町五反ノ内七反ハ地上り壱丁八反分ハ壱尺五寸はずし申候
○西其村本倒れ半倒れニて卅軒村内所ニ割れ目出来候所もあり沈ミも有之
○大島村田畑二丁歩土地にえニミ壱尺五寸位割目付中より水黄色の砂吹出し候よし
○楯縫平田近在ニて大分有之よし今市も七軒倒れ半倒れ」も有之左あらく申上候以上。

 伯州堺より飛脚到来ニ付噂左の通り○堺卅軒五軒大損じ倒れ家あり○米子大分の事あだち大庄屋の家も倒れ候よし三四年前二立候折宅○濱の目同断○鳥取城下四五十軒○江津平田屋よりノ飛脚十七軒○濱田卅軒損家有之又千ヶ等の咄しニ因伯作同断と申
 一一月一八日大地震。大坂では津波に襲われる。全国で被害。東海道大地震津波。

2018年4月26日 (木)

尾氏春秋と地震記事2

 天保六年二月一四日四つ時に前代未聞の大地震があり、崖崩れと落石。翌三月一二日夜には落雷が鳴り、二一日七つ時も地震。この月には竹島事件の関係者家老岡田頼母が江戸に召し上げ。六月四日から一三日まで大雨。九月一二日には朝5つの地震など三度の地震。一五日朝4つにも地震。一〇月一五日にも地震。米など総てに物価高騰。老中松平周防守康任は一〇月二九日に退役し、一二月九日に隠居し、家督を譲る。仙石騒動も発覚。
 天保七年二月には市木・井原・雪田・長田で一揆、首謀者は入牢。三月六日夜7つ時に大地震とするが、昨年二月よりやや細いとする。前兆の小さな揺れが明け6つ時に2つあり。七日9つ半にも地震。三月一五日暮6つにも地震が2つ、昨年来地震が多いと記す。四月には藩主松平氏は奥州棚倉へ。六月一二日には益田で大水害。流出物が仁万・宅野でひろわれる。廣嶋でも橋が流され、雲州を含めて大坂以西は大雨。津和野藩では洪水で流された使者が千人以上。盆以降は気温が下がり大寒。竹島事件の関係者が処刑される。今津屋八右衛門は拷問で責め殺される。九月には濱田藩から34ヶ村が天領に移される。一〇月以降は餓死者の記事が続く。その最中の一二月一〇日には地震。
 天保八年が明けても餓死の記事が続く。物価は高騰。行き倒れの記事も。二月一九日には大坂で大塩平八郎の乱。火事の記事も続く。そうした中四月朔日には大霜が降りる。三月二七日には大塩父子が座敷で自害。五月三日には大あられが降る。六月三日から六日までは出羽川筋で前代未聞の大水。物価は高騰。六月になっても餓死の記事。一一月一〇日には将軍宣下があり、大御所家斉は隠居。一〇月一九日には地震。一一月一六~一七日には雪が二三寸降るが、その後は二月のような陽気。一二月一三日4つ時にも地震。
 天保九年が明けても正月一五日朝3つ時に地震。泥棒などの犯罪も跡を絶たず。二月五日には積雪一尺。春に疫病が流行し、浅利村では500人余、温泉津・小浜でも600人余死亡。四月に宗門改めをしたところ1万3千人減少。閏四月五日には大森で仕置きが為される。この年五月には巡検が行われた。正規の統計では死に絶えた家七一六四軒、死者九九六七人。これに村を出た人々が多数いたと思われる。出雲部の場合は西端の海岸部で人口減少が目立ったが、救いを求める人の多くは松江城下へ行った。一二月四日夜大地震。

近世後期和木村の人口動向から

 小川斉子氏「近世中後期の浜田範領和木村の人口動態」(山陰研究9、2016)を読んだので、過去の記憶を思い出しつつ述べてみたい。その概要には「社会増加が人口増加に与えた影響は極めて小さく、自然増加によって高い人口増加がもたらされていたことが明らかになった」とあり、首をかしげてしまった。
 読んでみると、データに基づく分析であることは理解できたが、実際の状況の間にはギャップがあるのではないか。人口が増加した地域は海岸部が多く、その背景に漁業・製塩業の発達、食糧の生産増もあるだろうが、最大のものは水運中心の流通業の発展であろう。過去に作成した「近世島根県域における人口変動について」を読み直して確認したが、ギャップの原因は一時的な出稼ぎ者が宗門改帳に反映されないからであろう。出稼ぎ者は依然として本来居住した村の改帳に載っているのである。流通量の増加に自然増で対応できるわけはないのである。継続した仕事の増加は自然増をもたらす(出稼ぎ者が婿入りするケースも多くはないがあったであろう)が、実際の増加は宗門改帳に記されたものよりはるかに多かったと思われる。そういった人々を収容する宿泊施設も増加したであろうが、現在でも原発関連工事の宿泊者は原発が所在する町の人口にはカウントされない。
 ということで、とりあえず、人口問題の研究者には、そのような史料の発掘を期待したい。論文そのものは誤りではないが、実態は違っていた可能性が大である。無断で出奔し帳外になった人々(無宿者)も統計には含まれない。今回の論文は史料の残存により、最も人口が増加した天保の飢饉から幕末までがぽっかりと穴があいており、この時期の分析も必要である。海岸部以外でも流通に依存する割合の高い地域は人口が増加しているであろう。同様の問題は、松江藩の財政を詳細に記した「出入捷覧」についても述べたことがある。木下氏の史料でも貧困対策費について捷覧に言及されていたが、これに記されない特別会計(特に支出)については不明であり、これも史料発掘が望まれる。

 個々の点について言及すると、まずは和木村の1760年代の人口増(年平均増加率2.16)が目につく。粗出生率は4.44と最も高く、死亡率も1.63は低い方である。この時期のデータは管見の範囲ではあまりないが、迩摩郡大国村では1761年の1764人が1770年には1829人であり、ここまで増加してはいない(年平均増加率0.33)。福光下村も同様である。邑智郡矢上村では1762年の2092人が1770年には2717人で、年平均増加率は2.90と和木村よりさらに高い。和木村が属する跡市組の中心である跡市村は1750年1377人、1756年1421人、1770年1524人と年平均増加率はそれぞれ0.50と0.52である。今回史料の不足からデータが載せられなかった(単行本版がPDFで公開されているが、そこには表があり)和木村の天保の飢饉以後を計算すると、1842年1080人、1851年1300人、1868年1530人であり、年平均増加率はそれぞれ2.06と0.96となり、飢饉直後の増加率は1760年代に匹敵している。実際の増加は出稼ぎ者を加えるとはるかに多かったと思われる。それゆえに、飢饉が起きると深刻な打撃をうけたのである。村高や個人の持高も現実とは乖離しており、それを踏まえた分析が求められたが、人口についても同様である。実際の増加、減少はもっと激しかったのではないか。「社会増加の影響はほとんどない」とはマルサスの人口論と同様一面における真実でしかないのである。是非ともその地域で人口が増加した具体的要因を分析していただきたい。

2018年4月18日 (水)

『尾氏春秋』の地震記事1

 東日本大震災時に紹介した島根県邑智郡の記録『尾氏春秋』(以下では「春秋」)の地震記事を、大田を中心とする地震が起こったことをうけて、時代順に述べていきたい。
 「春秋」の最初の部分は過去の尾原家の記録の要約となっている。最初の記事は宝永四年一〇月四日八つ時(一四~一五時)に激しく揺れた記事である。紀州沖を震源とする大地震で、翌五日の朝の津波で大坂では三〇〇〇余軒が被災し三万人余が死亡、船一万艘が破損したとする。
調べてみると駿河国から日向国までの太平洋側での被害が大きく、日本海側でも震度六と推定される地域があった。
 次いで文化元年(一八〇四)の出羽大地震を記すが名称のみである。この地震により景勝地であった象潟が隆起して陸地になったことから象潟地震と呼ばれている。文化九年一〇月九日にも地震があったことのみ記す。文化一〇年四月一一日八つ時にも地震。翌一一年正月には五日夜、晦日夜の四つ時にも地震。二月八日七つ時にも地震の記事がある。一〇月二八日夜大地震、一一月一一日昼七つにも大地震の記事。明けて文化一二年正月一一日夜九つ時にも大地震の記載があり、前年から地震が頻発している。同年一一月二五日夜八つ時と一二月二七日にも地震。年が明けても正月一五日夜五つ時にも地震、二二日には大地震。文化一四年二月九日地震。六月二六日夜七つ時大地震。文化一五年正月二三日夜八つ時大地震。改元して文政元年(一八一八)となり、翌二年三月一九日夜四つ時地震。六月一二日八つ時地震。この月には浦賀にイギリス船が来航して交易を希望したが、強化せず、米五〇〇石を与えて帰国させたとする。ただし、確認すると来航は文政元年のようである。しばらく間があいて文政一一年九月五日朝五つ時に大地震。天保二年にも京都で前代未聞の大地震があり二〇日ほど続いたことを記すが、一年前の文政一三年(一八三〇)の誤りである。市中の二階建ての建物はことごとく倒壊したという。出雲大社谷風の琵琶を禁中へ差し出させたところこの大地震となったため、琵琶は大社に返されたという。体感する地震が近年より多い気がするが、どうであろうか。

帳外者の帰村

 木下光生「生き抜く術と敗者復活の道」(『貧困と自己責任の日本近世史』)の中で、自己都合で無断で村を出奔した人々が帳外とされることに触れ、帳外者に待ち受けている社会の厳しさについて述べられている。隣村で非人番などを務めている例があるなど、苦しい中でも一定の見通しのもと出奔するケースも少なくないとされる。ただし、隣村でのことであり、且つ高齢化や病気により非人番が務められなくなると、村の支援を受けることは困難となり、その村を出て物乞いをする道しか残されていなかった。物乞いにも様々あるが、最悪の場合は行き倒れて死亡することもあった。
 松江藩では伊勢参詣などを口実に無断で他国へ出る人々の増加を防ぐため、帳外者の帰村を認めないだけでなく、国外で死亡した場合は関係者による引き取りと葬儀・埋葬を許可せず、出身国に青駄送りとし、そこで非人の人々によって埋葬させ、これを非人取り捨てと呼んだ。ただ、この行為の評価は難しく、とりあえずは生国に遺体は戻され、家の墓ではないが埋葬されたのである。その実態は「取り捨て」とは異なっており、非人の果たした役割は大きいとも言える。
 飢饉による大量の村からの脱出者の発生により、幕府も対応を迫られ、天保の改革では有名な人返し令(一八四三)を出さざるを得なかった。帰村の促進による村の再開発を進めようとしたのである。
 このような法令は急に出されたものではなく、寛政の改革では旧里帰農令(一七九〇)が出されており、これを徹底したのが人返し令とされる。そこでは帳外までのものと、各別の犯罪者を除いたものを村役人が身寄りのものに引き渡すよう命じている。その六年前の天保八年(一八三七)三月にも村の人別を外れたもので御救小屋に入ったものや、欠落一通りのものは免して帰住させる命令を出し、松江藩では五月に各郡に命令を伝えている。
 木下氏は一度帳外を宣告されたものであっても居村に復帰できる道の残されていたとして、一八五八年に出奔し帳外となった一家が村に舞い戻り知人を通じて帰村を打診している例を挙げている。復帰の条件は何であったかわからないとしているが、前述のように遅くとも二〇年ほど前からは、無条件ではないが帳外者の帰村が可能となっていたのである。ただ、これをもって村がより寛容となったと評価するのは正しくなく、幕府・藩・村が帳外のプラス・マイナスを勘案しての対応であった。

近世における救済と自己責任2

 この本で扱われた論点に関係する一つの実例を紹介すると、宝暦一一年(一七六一)一〇月に、出雲国南部飯石郡のある村では村高の減額が認められたのを受けて、年貢負担者が請文を提出している。寛延四年の検地で一〇五三石と石高が増加したが、これに基づく税負担が過重であると村が訴えた結果、同年に一四五石減石された。その村は広瀬藩に属しており、飯石郡広瀬藩分の人口は元文三年(一七三八)の九一六人が、宝暦一二年には八二三人に減少している。また、出雲国松江藩分(除広瀬・伯太藩分)の年貢収納高をみると、平年が三二万石程度(一七七〇年代以降は三七万石程度に増加)に対して、宝暦五年と宝暦九年が二三万俵台と落ち込んでいる。前年の不作をうけて、宝暦一〇年にようやく減額が認められたのであろう。寛政一一年(一七九九)の検地では村高は九〇三石である。
 宝暦一〇年の請文の署判順は、寛延三年検地の持高順に基づくと思われる。請高をみると五石以上が三七名で、合計一六七名であるが、今回の署判者一二二名は高一斗以上の人だと思われる。この村には治安維持や竹細工の傍らで農業も行う鉢屋(男子)が一一人おり、その内一斗以上の高を持つ六名が署判している。寛延四年に持高が最も多い鉢屋勘蔵は五石三斗五升請け負っており頭であったと思われるが、宝暦一〇年までに死亡したようで、請文には四〇番目に源左衛門が署判している。
 源左衛門は寛延四年時は二斗七升七合の持高であったが、勘蔵の死により頭となり、鉢屋の人々の持高の変更が行われたのだろう。鉢屋の人々の生業において田の耕作の占める割合は百姓の平均よりかなり低かったと思われ、実際の経済力では個人差が大きいが、村の上層に匹敵する経済力を持つ鉢屋がいたと思われる。木下氏の説くように、持高のみで経済力がはかれないが、鉢屋においては持高が頭などの家格を示すことに利用された可能性は大きいのではないか。また、鉢屋の人々が他の百姓と同様、持高に基づく順番で署判を加えていることも注目される。

近世における救済と自己責任1

 購入しながら序文しか読んでいなかった木下光生氏『貧困と自己責任の近世日本史』を読んだ。よんどころない理由で隠岐へ日帰りすることとなり、昨日は波も凪いでいたので、船内で本を読むことが可能であった。
 最初に史料の評価について問題とされた。従来行われてきた持高に基づく分析に疑問がなげかけられた。持高の多寡とその家の状況の良し悪しの相関性はそう高くないというのある。本来の持高に意味はあったが、時間が経つにつれて実態とのあいだのズレが大きくなるのはどの時代にもみられる。中世では細かいデータは残っていないが、平安末期のデータに基づく大田文の田数が中世後期でも利用されていることはよく知られている。一三世紀半ばの実際のデータがわかる庄園の場合でも、大田文の田数とはかなりの乖離(増加している)がみられる。データーそのものは偽造されたものでなくても、時代の変化を踏まえずにそれをそのまま使うことによって歴史を偽造してしまうことはあるのである。

 救済のあり方について、通説では積極的に関与してきた藩などの領主が近世後期になるとそれは村の責任が基本だとして、消極的になるとの通説についても、近世前半から救済の主体は村であり、あくまでも藩はそれを補うものであったとの批判がなされた。これについては、なお前期と後期の藩の対応、あるいは村の対応について、さらなる事例の収集が必要であると感じた。
 この本では松江藩が救済のために支出した米とお金についても表にされ、それが臨時的な位置づけでしかなかったことが記されている。その出典となる「出入捷覧」についてもさらなる分析が必要であるが、これでわかるのは現在の一般会計の範囲であり、特別会計についてはブラックボックスとなっている。

2011年6月26日 (日)

百姓の住宅の規模

 宇和島藩の北端に位置する藩境の村、松渓・白髭村(現野村町)の資料(火災報告書)によると、居家は33家、そのうち百姓27家、無縁6家である。本百姓と思われる百姓層は13.5~22.75坪、平均して17.3坪、借家層と思われる無縁層は6~8坪、平均して6.8坪である。
 布部村の普請願書の申請者をみると、中間層から下層と思われ(過去に家を失い、借家住まいをしていたものが手狭になり家を持つ場合や、庶子が分家する際の家が多い)、その平均は百姓の平均としてはどうかと思い、ネット上で検索したところ、ヒットしたのが前述のデータである。家族数や立地(農村と都市)の違いもあろうが、当地域の差別された人々の家の面積(これは農村ではなく、町に暮らす例である)は、百姓の平均ではなく、中~下層の百姓の平均とほぼ同じというふうに訂正したい。
 宇和島藩のデータでは、「隠居家は7軒で3~7坪、そのうち過半数の4軒が7坪である。隠居した老人夫婦の寝食に利用された小さな建物であった。無縁層の建物もこの隠居家とほぼ同じ規模で、隠居した親夫婦と共に当主の弟妹が移動し、その子供たちが成人して分家した家ではないかと思われる」と記されている、当地で分家するケースでは平均10坪程度である。

2011年6月24日 (金)

差別は忘却からはじまる

 表題は「奈良の被差別民衆史」で述べられた言葉である。以前、差別された人々の住居の問題について考えた。基本的には平人の住居との間に規模・構造上の差はないことをデータの上から検証できた。住居の平均規模はともに10坪代で、礎石のものと掘っ立てのものがみられたのである。そして、近世後期に差別された人々の住居が平人と差が無いとして規制する法が出されているが、これは差が詰まってきて出されたのではなく、それまでは問題にならなかったことが問題視されるようになったものであると結論付けた。差別された人々の住居は周辺の村々の合力により建てられたのであり、勝手に建てたものではないのである。
 ところが、この地域の同じ問題を扱った唯一といってもよい近年の論文(古い時期のものはあるが)では、一例を基に、差別された人々の家の規模は大変小さく、それも百姓の集落からかなり離れたところにあったことが述べられていた。以前読んだ際には気にとめていなかったが、よく考えるとその問題点に気づかされた。
 それは、火災の報告書から指摘されたものであった。桁行2間半、梁行1間半で1間四方の雪隠があるというもので、住居部分は3.75坪と確かに小さい。ただし問題なのはこれが本来の住居かということで「木小屋」と記されている。差別を受けた人々は、石見国の例では猟師とともに狩りを行っていた。また出雲国の例でも山林を利用してさまざまな活動を展開していたことがわかる。とすると、これは住居ではなくまさに山の活動のための木小屋であり、それがゆえに規模も小さく百姓の集落から離れていたのである。
 この論文には、差別された人々が経済的に低位であったとの前提があり、それが全体の分析に影響している。実はそれは、多数派の人々(平人ならびに藩の役人)の意識(「である」ではなく「べき」)もそうだったのである。そしてその意識を検証すると、その大半が根拠のない思い込みに基づくものであることが実証できる。その意味で「差別は忘却からはじまる」との指摘は正しい。本ブログの主たるテーマである、「資料の声を聴く」からすると、これまで指摘した他の論文と同様、基本的な部分に問題があると考える。そしてこの論文は間違いなくある一つの通説に基づいて構成されており、問題なのはその通説なのである。

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