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囲碁史

2018年12月 4日 (火)

秋山版活碁新評

 秋山次郎監修『名著再び 活碁新評』(日本棋院)をようやく購入したので、原著並びに長谷川章補稿解説『新訂活碁新評 筋と形』(上下、名著名局囲碁文庫、東京創元社)と比較してみる。なお、現時点ではななめ読みなので、後に必要に応じて加筆・修正するかもしれない。表紙には「江戸時代の名棋士 岸本左一郎が遺した手筋教本」とあり、裏表紙には「実践手筋を学ぶ130問」と記されている。
 秋山版は『週刊碁』に一年半にわたって連載した講座に基づくもので、原著に忠実に全一三〇題を掲載し、岸本のコメントを部分的に引用しつつ、自らのコメントを付している。長谷川版は問題図と岸本のコメント(若干表現を変えてある)を最初に掲載した上で、自らの解説を加えている。秋山版より解説図も多く詳細である。そのためか、全一三〇題から八六題を選んで掲載している。『棋道』に連載したもの(上巻の五二題)に、未発表分(下巻の三四題)を加えているが、下巻は雑誌連載のスペース上の制約がないため、より詳細なものとなっている。
 長谷川版は、読者から「『活碁新評』の素材を利用しつつ、長谷川氏の著作といってよいものになっている(仮に原著を持っていたとしても長谷川版を購入する価値がある)」との指摘を受け、途中から長谷川章著『筋と形』に題名を改めて版を重ねている。当方が所持するのは、伊豆の収集家からいただいた原著のコピーならびに、一九五六年一月(上巻)と三月(下巻)発行の初版本(岸本著・長谷川解説)と、一九六三年一二月発行の上巻の第一〇版(長谷川著)である(成田山新勝寺図書館で撮影した活碁新評と常用妙手の写真もあり)。時間の余裕ができれば全部を読破して、原著がわかるような形でHP上で掲載したいと思っているが、それがいつになるかは未定である。棋譜のワープロソフトもあるようであるが、花子やイラストレーターを利用しつつ作成できないかとも思っている。少しみただけだが、現在では有段者向けのものであろう。
 なお、市内の最大の書店に用事があって久しぶりに行ってみると囲碁の本棚の中に一冊あるのみで、島根県出身の人物の著作に基づくものであることに気づく人がいるか疑問であった。郷土の本のコーナーに置いてもよいのではないか。来年五月末から六月初めには二〇一一年に続く二度目の世界アマチュア囲碁選手権大会が松江市で開催される。四〇回目の記念大会でもあり、その前宣伝としても活用できる。なにより、世界からの参加者に秀策の兄弟弟子でこのようなすぐれた著作を残した岸本の存在を知ってもらえる機会ともなる。 その意味で、秋山版には原著の末尾の岸本の文(このような本を出版することとなった経緯が述べてある)が掲載されればなお良かった。岸本は大森の生まれであり、この本は石見銀山が生み出した文化的遺産の一つである。    

2018年8月29日 (水)

囲碁界の近況

 最近の囲碁界の話題としては、台湾出身の許家元七段が棋聖位を井山九段から奪取したことがある。元々期待の若手ではあったが、一力遼八段の影に隠れていた。それが、AIを利用した検討で急速に力量がアップしたとのこと。今年の前半の成績は国内では無敗という状況で、挑戦手合いも三戦全勝であった。中国乙級リーグ(甲級に次ぐ二番目のリーグ)では二〇一七年の一六チーム中一一位残留に続き二〇一八年も参加した。結果は六位と上昇したが、甲級昇級の三位以内には入れなかった。許七段(当時)は八戦中五勝三敗と勝ち越してはいるが、その他を含めて国際棋戦ではまだ十分な結果とはなっていない。天元戦では決勝に進出し、山下九段と挑戦者決定戦を行うようだが(山下が勝利)、七月の棋聖戦Sリーグでは山下九段に敗れ、二勝一敗となった。名人戦は全勝で挑戦者となった張九段も棋聖戦リーグでは4戦全敗で陥落必死であり、復調気味ではあるが、全盛期とは違うようである。一方、井山名人は不調が続いていたが、最近復調中とも言われる。高尾紳路九段は名人失冠後のリーグ戦で陥落したが、これは史上初のこと。本人はブログで自戦のポイントを解説しているが、ほとんど紙一重(両方ともにミスが出る)で勝敗が決まっている。高尾九段は棋聖戦リーグは2勝2敗である。
 許七段は碁聖獲得で八段に昇段したが、その後の国内棋戦では黒星もついている。本因坊最終予選の1組準決勝では波根九段に破れ、これを観戦していた日本棋院中部本院の若手棋士が感動したとのコメントを寄せていた。王座戦トーナメントでは準決勝で本木八段に半目負となり、挑戦者決定戦は村川八段を破った一力八段との争いとなった。昨年一八才の六浦三段が高尾名人を破って優勝した阿含桐山坏は今年のベスト4が二四才、二三才、二一才、一八才の四人の棋士となったが、一力・芝野の若い二人の決勝戦となった。
昨年の井山氏への挑戦手合で全敗した一力八段も今年前半は不調が続いていたが、やや復調傾向にあるようだ。
 一方、新人王戦では一七才になったばかりの広瀬優一二段が決勝進出。同年齢一六才の関航太郎二段を四回戦で破った二三才の大西研也三段との決勝。これまた同級で一六才の上野女流棋聖は参加していない。NHK坏では女流で唯一初戦突破し、二回戦はシードの許八段と。関二段はジュニアの国際棋戦では唯一の優勝経験者。一力八段(優勝は現在の河九段)と、関西棋院の故長谷川広六段が準優勝経験者。長谷川六段は島根県江津市出身で、それこそ、本因坊道策、岸本左一郎に次ぐ石見出身棋士として将来を嘱望されたが、二一才で火災のため死亡。直前には最年少で六段に昇段したばかりだった。原因は不明だが、思い悩む様子がみられたとされる。広瀬、関、上野氏はともに藤沢秀行の子藤沢一就八段の門下である。昨年、早碁の竜星戦で芝野三段が優勝し、中国竜星で中国ランキング1位の河九段に勝利して話題となったが、今年は芝野八段は一六名によるトーナメントには進出していない。Aブロックのリーグ戦で鈴木七段と鶴田四段が芝野八段を抑えて進出している。1回戦が進行中であるが、藤沢女流名人が同じ藤沢秀行門下の兄弟子高尾九段に勝利している。今年は国際棋戦でも中国の若手有力男子棋士に勝利していた。
 以上のように囲碁界は若手の台頭が著しい。将棋の藤井七段にとっての最大の課題は、ライバルとなる若手棋士がどれだけ台頭するかであろう。囲碁の井山六冠の場合も、同世代でトップ級となったのは、関西棋院の村川八段ぐらいで、同世代のライバルに欠けていた。

活碁新評の現代版出版2

 『活碁新評』のあとがきにあるように父の死後、いかにしてその想いを実現しようか悩んだ末に、専門家向ではなく、初心者に向けた本の出版を思い立ち、当時、国文学者としては最も著名な大坂の篠崎小竹に推薦文をもらって出版した。塾頭とされる嘉永五年~七年は石見国大森から期間を限っての、帰京後三度目の上京である。
 囲碁史分野の投稿は、昨年九月五日「囲碁将棋界の近況から5」以来一年ぶりである。その前となると、山口県文書館に所蔵されている儒者の日記に左一郎と因碩の対局に関する記事があることを知って「因碩と左一郎」を投稿した二〇一四年一月である。二〇〇九年一二月には囲碁番付に関して述べているが、その後、県立図書館で出雲国の囲碁番付が所蔵されていることを知り、二〇一〇年末に写真撮影まではしたが、その後の作業は途中でストップしている。そろそろ囲碁の棋力をアップして、『活碁新評』が活用できるようになりたいと思う。
 当時は初心者向であったが、現在でいうならば有段者クラス向ではないか。大学生の頃は、藤原秀行氏が五〇手までなら日本一といったように、五〇手までなら初段以上のレベルとなったが、五〇手を過ぎると急激に棋力が低下した。序盤の打ち方は秀行氏の本で十分理解でき、「華麗」な打ち回しができたが、現在は本を読んでもなかなかそのようにはできない。ここ最近はソフトも強くなり、天頂の囲碁2の時点では、まったありなら最強モードでも勝利することもできたが、一年半ほど前に購入した銀星囲碁17(最新版は18、ネットで検索してみると、開発元は北朝鮮の会社であったが、一〇年以上前に契約を解消し、現在のものは無関係とのこと)にはどうやってかなわず、自然にソフトとの対局もしなくなったというのが現状で、昨日ひさし振りに打ったが、結果は一目瞭然である。ネット上に左一郎の棋譜もアップされているが、自分の所持する72局分がすべて掲載されているかについても確認が必要である。

活碁新評の現代版出版1

 日本棋院のサイトをみると、八月二八日付で『名著再び 活碁新評』が九月三日に発売されるとの予告記事が掲載された。丁度名人戦挑戦手合第一局が開始された日である。原典は現在から約一七〇年前の嘉永元年(一八四八)に出版され、そのあとがきを本ブログでも掲載したことがある。戦後になって日本棋院理事長をつとめた長谷川章八段による解説を付した『活碁新評』(上下二冊)が出版され、第二版からは副題であった「筋と形」が書名となり、著者名も岸本左一郎から長谷川章に変更された。
 論者は第一版の上をオークションで入手し、その後、京都府立図書館で下も確認。その後のオークションで、第二版の上下を入手。伊豆の囲碁史研究家の方から原本のコピーをいただいた。さらにはその後、千葉県成田市の成田山新勝寺図書館で、著名な囲碁史料収集家荒木直躬氏が寄贈された資料を閲覧し、写真撮影している。そこには『活碁新評』が2種類3冊、『常用妙手』が1冊保存されていた。そのあたりは、自分でも過去のブログ記事を参照してようやく思い出せるという状況である。『常用妙手』については広島県三原市立図書館で秀策が保管していたと思われる本(「桑堂所持」と表紙に記されている)を見たが、その時は撮影をせず、二度目の訪問時には本が失われていて残念であった。
 今回の本は『週刊碁』で二〇〇九年一一月から二〇一一年六月まで、秋山次郎九段監修で掲載した講座を編纂したもの。その当時から本になることを期待していたが、AI囲碁の時代が到来した現在、刊行されることとなった。現在にいたる迄、手筋を解説した本の古典であり、多くの手筋集の原典となっている。左一郎については、必ず「本因坊家の塾頭をつとめた」とあるが、実際には家庭の事情(兄が家を相続したはずであったが)で石見国に戻った後のことで、疑問を感じる。

2014年1月29日 (水)

因碩と左一郎(4)

 「左一郎と因碩の対局」の中で、「左一郎は11月中旬には周防国小郡で堀部弟策と対局している。(岡山での)因碩との一局が小郡の先か後かについては、不明である」と述べた。これに関連する史料に偶然出会ったので、補足をする。
 山口県文書館蔵「近藤芳樹日記」は長州藩の国学者の日記であるが、その一節に左一郎と因碩の対局に関する記述がある。近藤は1801年生まれ。長州藩の藩校明倫館の教官をへて、明治8年には宮内省文学御用掛となり、明治天皇の東国行幸・北陸行幸にも随行した。1880年に80才で死亡している。
 近藤の日記の弘化3年11月13日~15日条に左一郎と因碩の記事が記されている。13日条には、近藤が小郡に赴いたことを記す。石見の岸本の左一郎という5段位(5段格であった)の碁打がしばらく小郡に滞在し、現地の人々に碁を教えていたと記す。次いで、最近になって井上因碩という江戸の碁博士・8段が長崎へ下る途中、小郡に立ち寄ったとする。因碩の同伴者が堀部方策(この点は棋譜の読み「弟策」を訂正する)であった。小郡は以前から碁が盛んで、秋本・長井・品川らの強豪が集まって両者と対局していることを聞いて、めづらしいと思い、近藤も見に来たが、惜しいことに昨日で大国手(因碩のことか)と岸本の対局は終わったと言われた。ただ、せっかくのことなので、因碩と会い、その感想を記すとともに、歌を詠んでいる。「とをはたとかぞふるつらをぬけ出て、きみひとりこの道やきハめし」。短冊に書いて因碩に渡そうと思ったが、あまり歌には精通しているようにはみえなかったので、そのまま宿に帰ったとある。
 14日朝早く因碩は出発したが、方策は残り、近藤にみせるために左一郎と対局し、90手で打ちかけとした。翌15日朝から対局が再開され、午後2時前後には100手を越えたが、明日から萩へ帰ることになっており、夜が更ける前に、近藤は帰宅した。後日、因碩と左一郎の対局が見たかったが見れなかったのは残念であるが、方策も3段であるとして自らを慰めている、。この記事からすると、小郡から長崎へ向かった因碩が左一郎と対局したのは弘化3年11月中旬で、対局場所は、岡山ではなく小郡ではなかったか。

2011年9月13日 (火)

左一郎と因碩の対局

 この点については以前ネット上でその棋譜を確認したが、その後そのサイトが閉鎖されたこともあって確認できなくなった。最近別の形で復活したようだが、現時点では以前ほどの棋譜は掲載されていない。他の棋譜のデータベースをみても、因碩戦は掲載されていない。そこで、福井正明氏による『幻庵因碩打碁集』を入手してみた。アマゾンでは中古でも販売されており、手数料込みでも二千円弱で購入できたのはラッキーであった。中国地方の図書館で検索すると岡山県立図書館のみが所蔵していたが、岡山へ行く時間と費用を考えれば、なおさらである。
 その結果、弘化3年11月に岡山での対局として、棋譜が記載されていた。因碩は8月初めまでに秀策との5局を大坂で打っていた。左一郎は11月中旬には周防国小郡で堀部弟策と対局している。因碩との一局が小郡の先か後かについては、不明である。最後まで打っているので、2~3日はかかったと思われる。解説をみる限り因碩が晩年にまとめた『囲碁妙伝』に収録されていたようであるが、64手までを示して持碁と記す。
  左一郎の2度目の上京は弘化元年5月の伊藤徳兵衛との棋譜が最後である。翌2年に父が死亡しており、石見国に帰国したのであろう。同2年10月の尾道での秀策との対局は父を失って後のものであろう。2度目の上京時にはやや押され気味ながら秀策との白番でも二度勝利していたが、尾道での対局の時点では黒番1目負け、そして弘化3年には秀策が因碩に黒番で3勝しているのに対して、左一郎は2子で持碁と、両者の間には差がみられた。

2011年9月 3日 (土)

棋譜からわかる左一郎の動静(3)

  今回は上手である7段秀策、7段伊藤松和、7段大田雄蔵、7段坂口仙得、8段秀和との黒番15局と二子1局(対秀和)では、秀策に2勝1敗、大田雄蔵に1敗、秀和に6勝2敗(黒番)、松和に3勝、仙得に1勝と、12勝4敗の成績をおさめている。互先であった鶴岡三郎助には黒番で9目勝、下手であった佐瀬秀石、村瀬弥吉(秀甫)、小沢金太郎、鈴木善之助との白番9局では弥吉との持碁1局を除き勝利している。確認できた棋譜では20勝4敗1持碁と優秀な結果を残して、5段さらには6段を認められている(この外に秀策と秀和と1局ずつの打掛がある)。
 以上のような成績にかかわらず、左一郎本人はこの時点では石見国での囲碁の指導を自らの使命としていたのだろう。これ以後の棋譜は確認されていない。左一郎は安政2年正月には江戸からの帰途京都に寄り、その後尾道には寄らずに石見国へ帰った。
 嘉永3年に秀策が石見国を訪問した際に、左一郎は秀策と対局をしているが、安政4年5月の秀策の出雲国入りの際には別行動で、外に指導に出かけていたようである。同年8月29日の秀策書状は、京都に行った秀策が尾道の支持者へ送ったものだが、その当時左一郎が尾道に指導に来ていたことがわかる。またその書状の中で秀策は、京都での指導碁4局の棋譜を送るが、不出来なので左一郎には見せないよう依頼している。秀策からすると左一郎の棋力は無視できないレベルとなっていたので、このような発言となったのだろう。

2011年9月 2日 (金)

棋譜からわかる左一郎の動静(2)

 次いで弘化2年(1846)10月の尾道での秀策との1局(黒番1目負)、同3年11月の周防国小郡での堀部弟策との1局(白番2目目)がある。そして、以前ネット上で確認した記憶があるとしか現時点ではいえないが、同11月には幻庵因碩との持碁の1局があった(岡山での対局であったことを確認)。
  そして嘉永元年(1848)には大坂で『活碁新評』を出版し、弟子岩田秀苗(右一郎)を伴っての上京があった。正確にはこれが3度目となる。その3年前=弘化2年に亡くなった父美濃屋丈助は最初の天保8年~11年の上京時には左一郎とともに江戸で生活しており、本因坊家の関係者との交流もあり、挨拶と右一郎の本因坊家入門を兼ねてのものであった。
 嘉永3年(1850)には尾道で5局(1局打掛)、石見国大浦で2局(打掛1局)、秀策との棋譜が残されている(黒番4局、白番1局ですべて秀策の勝ち)。尾道慈観寺の5月25日の黒番で7目負けとなり、「常先」へと打ち込まれてしまった。両者の間には明確な差がついたのである。この後が、嘉永5年9月から嘉永7年10月まで、最後の江戸修行となる

棋譜からわかる左一郎の動静(1)

 1998年11月に確認した左一郎の棋譜は43であったが、29増えて今回は72となった。天保11年(1840)に石見国へ帰ってから同14年の2回目の上京の間に、天保12年4月と9月の中川順節五段との2局がある。順節は大坂を拠点としており、4月の「尾州御屋鋪」とは大坂の尾張藩蔵屋敷とすべきで、9月の陸原左一郎宅も同様であろう。一定期間大坂に滞在していたのである。順節とは黒番で中押し勝ちで、白番では敗れている。
 同13年4月には天王寺屋忠次郎宅で勝田栄輔との6局の棋譜が知られるが、天王寺屋宅とは弘化3年7月(1846)には、幻庵と秀策が有名な耳赤の一局を打った場所であり、これも大坂である。栄輔は江戸在住の幕臣で五段であったが、四段であった左一郎の黒番4局で2勝2敗、白番2局で1勝1敗であった。
 そして、同年8月以降は2度目の江戸での修行となり、秀策との棋譜が残されている。秀策が同年10月に四段格から四段に進んでいる。翌年2月までの13局で、黒番5局で2勝3敗、白番8局で2勝6敗である。互先であるので、今後黒番3局が確認される可能性があるが、やや秀策に押されており、このため五段を認めらるには至らず五段格で石見国に帰国したのだろう。

2011年8月28日 (日)

左一郎の棋譜と棋書

 荒木氏所蔵本には『活碁新評』が2種類3冊、『常用妙手』が1冊あるが、『囲碁定石集』上下2冊は含まれない。『新評』は出版された上下2冊本とともに、写本の1冊本があった。写本の表紙には「桂花園蔵」と記される。巻末には「嘉永元年九月 岸本左一郎直樹しるす」とした上で、朱筆で左一郎による後書きと篠崎小竹の序文は省略したことを記す。また、2巻本では碁罫紙に問題を記した裏に解答・解説が文章で述べられるが、写本では碁罫紙に手順を記し、碁罫紙の上部に解説を記している。
 『常用妙手』については、以前、三原市立図書館で「桑堂所持」と表紙に記した写本をみたが、今回は印刷本である。関係する表記がないので出版本ではないが、前半に問題を碁罫紙に記し、後半には碁罫紙とその上の覧に番号と解説が記されている。 最初は同じ内容の本が2冊綴られていると思ったが、そうではなかった。写本と同様左一郎の序文が記されている。
 棋書としては左一郎の弟子岩田秀一郎の編集になる『囲棋常用手談』がある。『常用妙手』との比較はしていないが、80題の手筋の問題を収録している。問題と解説文のみで岩田による序文はないが、巻末には明治十五年十月二十九日と三十日の2日間で掘九郎兵衛が写したことが記されている。
  棋譜集としては「秀策天保録、左一郎嘉永録」がある。前者は左一郎が2度目の上京をしていた天保14年から15年にかけての秀策の棋譜で、左一郎相手の棋譜も含まれる。後者は左一郎3度目の上京中の嘉永5年から7年の棋譜で、秀和、秀策、伊藤松和、坂口仙得、鶴岡三郎助、大田雄蔵との対局分が収録されている。左一郎によるまとめられた棋譜集であろう。あと一冊「囲棋十一局」と題する、左一郎の嘉永6~7年の棋譜集がある。伊藤松和、秀策、秀和、佐瀬秀石、小沢金太郎、鈴木善之助、村瀬弥吉との対局分が収録されており、一部は前の棋譜集と重なる。碁罫紙はつかわず、手順のみ文字で記している。「群雄技蹟」を加えれば3冊となる。

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