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2021年5月

2021年5月31日 (月)

播磨守藤原隆親をめぐって

 藤原忠隆の孫(嫡子隆教の子)隆親については本ブログで何度か述べているが、播磨守退任時期と藤原重家の太宰大弐補任時期の関係について確認する。後者は承安元年一二月であり、問題は前者である。五味文彦氏は同時とされたが、『播州増位山随願寺集記』に清盛が仁安三年に播磨国知行国主となったとあり、本ブログでは隆親の退任は仁安三年(一一六八)と考えた。
 播磨守隆親の終見史料は『兵範記』同年三月八日条であり、高倉天皇の即位の儀式が行われた大極殿青龍白虎楼以下の御覧修造を播磨守隆親が知行国主松殿基房のもとで勤仕している。その後、重家の大弐補任までの播磨守関係史料は『兵範記』同年四月一三日条のみである。記主平信範が、基摂政基房が就任御初めて行った賀茂詣を近衛桟敷で見物していたところ、そこに1)花山院中納言、2)皇太后宮権大夫、3)修理大夫、4)武蔵中将、5)播磨守等がやって来たことと、それは6)左衛門佐の好み(発案)によるものだと記されている。直感的にすべて平氏関係者ではないかと思い、確認した。2)は皇太后宮滋子に仕える平宗盛、3)は平頼盛、4)は左近衛権中将に昇進するとともに、武蔵守から武蔵国主に転じた平知盛である。1)も二月一七日の除目で権中納言に昇進したばかりの花山院兼雅で、5)はその父忠雅の同母弟で『山槐記』の記主である中山忠親である。
 兼雅の父忠雅は一〇才で父忠宗が死亡したため、母方の実家である藤原家保邸で、一七才年長の叔父家成とともに育った。兼雅の母も家成の娘である。そして兼雅は平清盛の次女を妻とした。その間に長子(九条兼実の子良通の妻となる)が生まれたのは見物の二年後(一一七〇)である。
 家成の嫡子隆季は、待賢門院・崇徳院との関係が深く、鳥羽院政下では寵臣であった家成の子としては出世は遅かった。保延三年(一一三七)一月以来長らく左馬頭(久寿元年三月に一時停任)に留め置かれていたが、その地位も保元の乱の恩賞である左馬権頭のポストに不満を持った義朝に譲らざるを得なかった。鳥羽院の死と崇徳院の配流、後白河天皇即位により若干改善したが、天皇に寵愛されたのは異母弟成親であった。そうした中、平治の乱後、妹経子が平清盛の嫡子重盛の妻となったこと(長子清経誕生は一一六三年)で、平氏との関係を強める。隆季の嫡子隆房と清盛の娘との間に隆衡が生まれたのは承安二年(一一七二)であった。異母弟成親は鹿ヶ谷の陰謀(一一七七)発覚で殺害されるが、隆季と同母兄崇徳院の死亡に際し何もしない後白河院の関係はずっと悪く、寿永二年(一一八三)一月一日には、後白河院が帥入道隆季の知行国備後国を没収している。そこには隆季を「素院御気色不快之人」と記している。
 隆季は清盛との関係を強めたが、崇徳院関係者を親戚と呼ぶ頼朝が幕府を開いたため、却ってその一族の地位は向上した。話を戻すと、以上により仁安三年四月一三日に摂政初賀茂詣を近衛桟敷で見物した「播磨守」が藤原隆親ではなく、平氏関係者であったことは明白であろう。三月八日から四月一三日の間に播磨守は交替し平家知行国となった。ただし国主は清盛ではなくその子宗盛であった可能性がある。五味氏は藤原重家が大弐となった承安元年一二月以降に播磨国は宗盛知行国となったとされていた。

 

2021年5月25日 (火)

藤原忠通の結婚

 この問題については、父忠実が、白河院の養女となっていた璋子との縁談を固辞したことが有名である。忠実の日記『殿暦』には璋子の素行について記されているが、この時点(一一一五)で璋子は一五才であり、噂の虚実は不明である。何より璋子は鳥羽天皇に入内している。また、璋子と養父白河院をめぐる角田文衛氏の大胆な説は成立しないことが明白となっている。
 忠通にはすでに藤原基信の娘との間に長子恵信が生まれていた(一一一四)が、忠通が正室として藤原宗通の娘宗子と結婚したのは元永元年(一一一八)一〇月であった。宗通は白河院の寵臣として知られ、鳥羽天皇中宮となった璋子の中宮大夫をつとめており、璋子の子崇德天皇に忠通と宗子の娘聖子が入内している。璋子は白河院の人事をめぐる介入に対して苦言を呈することができる存在であった。
 ということでこの問題を客観的にみると、璋子は閑院流公実と光子の末子(娘)であるのに対して、宗子は宗通と藤原顕季の娘の長子(娘)である。公実は鳥羽天皇の即位に際して摂政の地位を望んだが認められず、忠実が堀河天皇の関白に続いて幼帝鳥羽の摂政となった。公実は忠実より二五才年長で、璋子の同母長兄通季は忠通より七才年長、異母長兄実隆に至っては忠実の一つ下にすぎない。これに対して、宗子の同母兄弟は忠通より六才年長の信通から二才年下の重通まで五人いたが、すべて宗子の弟であり、形の上で忠通は義理の兄となる。宗子は忠通より七才年長で、結婚時には二九才であった。宗子の結婚が遅れた理由は不明である。
 忠通が璋子を室とした場合は、年長の義理の兄に取り囲まれたのに対して、宗子の場合は義理の弟として対応できる。また閑院流が道長の祖父師輔の子公季を祖とする遠い親戚であるのに対して、宗通の祖父頼宗は道長の子であり、分家的存在である。このあたりが、忠実が璋子ではなく宗子を忠通の正室とした客観的背景ではなかったか。
 忠通と宗子の間には結婚して二年後の保安元年(一一二〇)九月二四日に長女が誕生した。一月後の一〇月二六日には父忠実が養女としているが、その後の動向は不明で、早世した可能性が高い。この年の五月には忠実の三男頼長(長男は早世し、忠通が二男)が生まれている。忠通と宗子の間の唯一の子と言われることがある聖子は保安三年の生まれである。
 宗子は久寿二年九月一五日に六六才で死亡している。終生忠通の正室として尊重されていた。忠通は異母弟頼長を養子としたが、宗子の年齢が五〇才を超えると、康治二年(一一四三)の基実以降立て続けに子が生まれている。宗子への遠慮があったのであろう。藤原頼通ですら正室以外が生んだ男子は養子として他家に出すか、寺に入れていた。結果として頼通の後継者となったのは五一才時に生まれた師実であった。表面的な情報のみであるが、まとめると以上のようになる。

2021年5月23日 (日)

阿波守藤原保綱2

 行康はそのもとに乱入した斎宮召使を蹂躙したとある。この事件について『百錬抄』では二四日の記事として、信濃、阿波雑掌が斎院下部を陵礫した下手人であるとして、使庁が伊通卿と教長等を譴責したと記している。阿波国は教長の知行国であったことになるが、五味氏の表では、阿波国は德大寺公能の知行国と推定されている。斎院、斎宮の役を国司が未進したことにともなう事件であろう。ということで、中原頼盛の扱いと、阿波国知行国主が誰であったかが問題となる。
 保綱は崇德院の側近として保元の乱で処罰された実清の子である。これも五味氏の表には漏れていたが、父実清が前任者の死亡により短期間ではあるが近江守となり、それを退任して近江国が忠実知行国となった直後に実清の子保綱が阿波守に補任されている。保綱の前任頼佐の時期は德大寺実能の知行国と五味氏は解釈され、保綱の時期は実能の子公能が国主であるとされた。実能は崇徳院の伯父であり一理はあるが、頼佐は崇徳院判官代でもあった。実能の知行国が崇徳側近実清に譲られたとの解釈ができるのではないか。
 ただし、当時の崇徳院の立場は強いものではなかった。崇徳の父鳥羽は白河院政下では新院分として国司補任枠を有していたが、鳥羽院はみずからの一院分とともに新院(崇徳)分も廃止してしまった。一旦、阿波守を交替した保綱は今度は藤原教長分として阿波守に再任されたのではないか。国司に補任されてすぐに重任を認められる例も存在している。ところが、事件が起きてしまったのである。その結果、保綱は阿波守を解任されたが、清通はその後も信濃守に留まっている。知行国主であった伊通(その姉妹は忠通の妻で、皇嘉門院の母)と教長の立場の違いとも考えられるが、もう一つ、当時の西国では暴風雨により飢饉が発生していた。『本朝世紀』一月二六日条には近江から中四国にかけての一一ヶ国等から去年の失損に伴い去年分の済物を免除することを求めた申請が出されているが、その中に阿波国も含まれている。造営の約束により重任功を認められた保綱と阿波国住人の間のトラブルも発生していたのではないか。ということで、保綱の初任時は父実清が、再任時は藤原教長が阿波国主であったと考えたい。教長もまた、保元の乱で崇徳院のもとに参陣し、配流処分を受けた。その学識は高く評価され、欲のない人であった(『台記』)。処分が解除されると藤原光能(この人物が待賢門院・崇徳院流に属することは何度も述べてきた)に働きかけ、讃岐院から崇徳院に名称が変更され、崇徳院の除霊施設が設けられるきっかけをつくった。

阿波守藤原保綱1

 崇徳院の第二皇子誕生に関係する記事がないかと、史料総覧作成記事の同年分を参照した。従来は、当該年の院、天皇、摂関名で検索していたが、これだと連続して閲覧できない。偶然、編纂所所蔵史料データベースで「大日本史」(大日本史料でも)で検索していて、作成記事がすべてヒットすることを知った。
 従来は同年九月二八日に熱田大宮司季範の子範忠が式部丞に補任されたのが、第二皇子誕生をうけてのものであろうと推測できた。皇子を産んだ女性=崇徳院参河権守の母と頼朝の母は範忠の姉妹であった。直接的史料ではないが、一〇月一四日に九才の孫王(雅仁親王子)が為信法親王の弟子として仁和寺に向かっている。父方の閑院流である三条公教、德大寺公能や母方の藤原経宗が扈従している。
 近衛天皇は同年初めに譲位の噂が流れるなど、健康面での不安を抱えていた。そうした中、崇徳院に長子重仁に続いて第二皇子が誕生したことで、雅仁のみならず、その子孫王の存在意義は決定的に下がったと思われる。とはいえ、第二皇子の健康面の実態には一定期間たたないと不明な点もあった。
 話を阿波守保綱に戻すと、久安三年一月二八日に保綱が藤原頼佐の後任として阿波守に補任されているが、その一年後には中原頼盛が阿波守に補任されている。保綱の在任期間は一年であったが、これに続いて、仁平元年二月一日には阿波守保綱が建物造営による阿波守重任を申請し、宣旨により認められている。次いで七月二四日には保綱が阿波守を解官されている。いずれも『本朝世紀』の記事である。五味氏の受領表では頼盛補任の記事はリストアップされず、久安三年に補任された保綱が仁平元年に重任を認められたが、何らかの理由で七月に解任されたと解釈されている。仁平二年二月には藤原成頼が阿波守に補任されているが、保綱解任と成頼補任の間に国司のポストが空席であったのかは不明である。
 保綱解任と関係しそうなのが、仁平元年八月二六日に検非違使が大納言伊通と参議藤原教長宅に派遣され、(賀茂)斎院使と(伊勢)斎宮使に濫妨を働いた下手人として、少監物藤原仲盛と縫殿大夫行康を拘束している。内容に少し理解が難しい点があるが、仲盛は伊通のもとで執行として沙汰にあたっていた信濃国で斎院召使に濫妨を働いた。当時の信濃守は伊通の子清通で、伊通が知行国主であった。五味氏の受領表の信濃国分は作業はこれからであるが、そのように解釈されている。

 

2021年5月17日 (月)

嘘も積もれば‥‥

 受領表は安芸国が終わり、阿波国へ入ったが若干気になっていた点を再確認した。それは承安三年二月日安芸国司庁宣並びに同日厳島神主佐伯景弘解状に付された国司の外題安堵である。『平安遺文』で編者竹内理三氏が国司高階朝臣に「成章」という注記を入れ、広島県史もそれを踏襲している。ただし、この時期に安芸守高階成章という人物は存在しない。過去に「成章」と「盛章」はいたが、世代が違い死亡している。当然、広島県史は確認すべきであるがしていない。「某」(比定者不明)とするのが正解である。この前後の受領経験者では高階信章と俊成が可能性がある程度である。信章は周防守在任時に藤原経家と衝突し、信章は解官、経家は叙籍処分を受けている。その後の任官の記録は不明だが、治承二年正月二七日には従四位上に序せられており、安芸守に補任された可能性は十分にある。一方、俊成は摂関家家司で仁安二年には対馬守に見任している。
 広島県史も問題だが、『国司一覧』が上記二点の史料を根拠に、高階成章が安芸守であったとしている。『中世史ハンドブック』(担当は飯田悠紀子氏)も同様である。後者はおまけに、その後任を藤原保房としている。安元一年一二(一一ヵ)月と二年二月、七月の三通の国司庁宣はいずれも「大介藤原朝臣」が奥上判を加えている。これに対し保房が安芸守に補任されたのは治承二年一二月二四日であり(この記事は広島県史に収録されている)、別人である。平安遺文と『国司一覧』でも人物の比定はされていない。広島県史は飯田氏の見解を鵜呑みにして三通の署判者を保房とし、後日発行された年表でもそうなっている。
 当方は五味文彦氏作成の受領表の加筆、補訂を行っているが、さすがに五味氏は「高階某」「藤原某」としている。このように研究のレベルが低いので、五味氏の表を公開する必要があるのである。実例はやまほどある。当方は院政期から戦国期(さらには江戸期)までの史料を扱うが、より熟練しないと論文が書けないのは中世前期であり、後期はそこまでいかなくても論文を書くことは可能である。問題は難易度の高い前期を専門とする若い研究者が少ないことである。大学で三年次に国史学科に進んだが、オリエンテーションで近代を専門とする院生が、近代史なら四年になってからでも卒論がかける(経験一年でとの意味)と勧誘していたのを思い出す。個人名は憶えているが、必要ないので省略する。
 先行研究に誤りが含まれていることは当然ある。問題なのはそれが訂正されないまま通説となることである。これが「嘘も積もれば‥‥」の意味である。

2021年5月13日 (木)

出雲守季仲について3

 これについては、出雲守季仲は存在せず、高階重仲の誤りだとする大日方克己氏の説を批判したが、もう少し補足しておく。
 大日方氏は天仁元年(実は改元前の嘉承三年)二月二二日に山陵使として嵯峨に派遣される予定であった「元使出雲守藤原季仲」を大日本史料の編者の注記のように顕頼の誤記とするが、顕頼はその一月前に補任されたばかりであることと、「顕頼」を「季仲」と誤記する(即位雑例条々兼日に収録する際)ことは考えられない。柏原に派遣される予定であった「元使下野守源朝臣経兼」、村上に派遣される予定であった「元使肥後守藤原為宣」はそれぞれ「前下野守」、「前肥後守」の誤りであり、「前出雲守」の誤りならありうることである。また「出羽」と「出雲」を誤記した例は存在するので、本来は「前出羽守藤原季仲」(前述のように出雲守退任後しばらく間を置いて出羽守に補任されている)ではなかったか。実際に、嘉承二年八月一七日には尊勝寺等七ヶ寺に没後四七日(初七日に対する表現。五七日の御誦経使は二三日に派遣)の御誦経使が派遣されているが、堀河天皇の埋葬地となった香隆寺に派遣されたのは「前出羽守季仲」と式部少輔有元であった。
 もう一点、大日方氏は重仲の死亡記事に出雲守に補任された八年後に任中公文を済ましたと記されていることをあげるが、これはイコール八年間在任したことを意味しない。寛和五年に季仲の見任が確認できるが、この年の内に重仲と交替しておれば、死亡記事に適合するのである。

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