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2021年4月18日 (日)

大家庄の領家2

 行輔は系図では「従四位下美濃守」とあるが、建久六年(一一九五)八月一三日には出家している(『三長記』)。二二才であるが、所労により出仕していなかったとあり、この後間もなく死亡した可能性が高い。また、この前後の美濃守の補任状況からすると、文治年間に美濃守となり、出家の時点では前司であった。このため、頼輔の娘を母とする九条良平が大家庄領家職を継承した可能性が高い。曆仁元年一二月一四日に良平・高実父子が成恩院に施入(寄進)した庄園の中に石見国大家庄がみえるのはこのためである。次いで高実と権大納言藤原経通の娘との間に生まれた忠基が領家を継承したと思われる。
 問題はこれ以降で、参議兼検非違使別当にまで進んだ忠基が弘長二年(一二六二)閏七月一三日には職を辞し、翌年二月五日には死亡している。三四才であり、後継者が成人に達していなかったことが想定される。系図には忠基の子として男子七人が記されるが、六名は仏門に入っている。そして残る一人良澄は、祖母所帯の文書を勝手に処分し逃亡したために祖母から義絶されたとされる。忠基の死後、その母である経通の娘が所領の管理にあたったと思われるが、忠基の子で公卿になるものはなかった。祖母以外の経通の子をみると、僧侶となったものと藤原敦通の子から養子に入った氏通のみ記されており、祖母が経通領も継承していた可能性が高い。ということで、経通の娘以降の大家庄領家は現時点では不明とせざるを得ない。なお未確認の点があり、後日、その調査結果を述べたい。

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