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2021年4月22日 (木)

益田庄の庄園領主3

 大家庄とともに以前に述べた表記の点についても補足する。
 大家庄については曆仁元年(一二三八)一二月に九条良平・高実父子が成恩院に施入した中にみえていた。その直後に元宜秋門院であった異母姉立子が六七才で死亡したことはすでに述べたとおりであるが、良平も翌二年正月一九日に太政大臣を辞して出家し、出家の一年二ヵ月後には五七才で死亡している。子高実は権大納言であったが、父出家の一二日前に仗座で意識不明となり、なんとか蘇生したが、二月二三日には権大納言を辞して民部卿に転じている。健康面の問題であろうが、仁治元年正月二二日には民部卿も辞して散位となった。良平の死はその二ヵ月後であり、高実の嫡子忠基は一一才であった。さらに高実は仁治三年三月一七日には出家し、一八才となった忠基が非参議従三位に叙せられた寛元五年(一二四七)正月の一年七ヵ月後には三二才で死亡した。
 後ろ盾のない忠基はながらく非参議に止められ、ようやく弘長二年(一二六二)正月二六日に参議となり、三月二九日には従二位、七月一六日には右衛門督・別当に補任されたが、その直後に所労により別当を辞し、一二月二一日には参議と右衛門督も辞している。健康面に問題があり、最後にアリバイ的に補任されたものであろうか。翌三年二月三日に出家し、五日に三四才で死亡している。こうした中で、忠基の母である藤原経通の娘が大家庄領家となったと思われるが、すでに五〇才を超えていたと思われる。
 益田庄について補足すると、皇嘉門院から異母弟兼房に譲られた。兼房は兼実の四才下の同母弟であるが、才気には欠けていたようで、太政大臣に補任され五年間在任したが名誉職以上のものではなく、兄兼実が失脚した建久七年一一月二八日に辞職し、正治元年に四七才で出家し、その一八年後に六五才で死亡した。
 兼房の子兼良は父の出家と入れ替わるように非参議公卿から権中納言となり、その三年後には大納言に進み、七年間在職したが、本来あるべき後継者が公卿になることがなかったためであった。兼長という名が知られるが、経歴は不明である。編纂所データベースで検索すると、後世の『師守記』に引用された建仁二年閏一〇月二〇日の任大臣節会に「権大納言藤原兼長」がヒットするが、これは父兼良の誤りである。兼良は一方では正治二年三月六日には兼実の娘任子の中宮大夫に補任されたが、六月二八日には院号宣下によりその任を解かれている。
 以上のように、益田庄の本家であった兼房-兼良父子はそれぞれ太政大臣、大納言に補任されたが、ともに名誉職的なもので、権力とは無縁の存在で、兼良の子で公卿に進むものはなかった。このため、兼良が承久二年(一二二〇)に出家し、翌年一月に死亡した後は、兼良の弟で園城寺長吏となった道誉(一一七九~一二四〇)が継承し、次いで園城寺長吏の後任である九条道家の子狛僧正道智が継承した。この道智については、彼を祀る南禅寺高徳庵(最勝院)の寺傳(そのものは未見)からより詳細な経歴が判明した。道智は九条道家の子として建保五年(一二〇七)に生まれ、園城寺道誉に師事したのちに南禅寺の北にある禅林寺(後に後嵯峨天皇の離宮が竣工)の住職をへて圓城寺長吏となった。寛元元年に天皇の護持僧となり、文永六年三月三日に五三才で死亡している。益田庄に関する新出史料=文永六年(一二六九)四月一二日法橋範政書状の内容と合致している。天台密教の法力により白馬にまたがり生身を天空に隠したという伝承から狛僧正と呼ばれた。
 以上のように、大家庄と益田庄の庄園領主はともにその家としての権勢が続かず、仏門に入った人物(興福寺や延暦寺の関係者)が継承した。

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