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2021年4月28日 (水)

伯耆守平国盛1

 伯耆国受領表の作業時には気付かなかったが、当該の人物の系譜上の位置づけについて変更が必要となった。平教盛と日野資憲の娘との間に生まれた二男教経の初名が国盛であったため、伯耆国司国盛をこれに比定したが、備前国受領表作成により、平国盛がもう一人いることに気付かされた。それは応保元年四月三日に備前守に補任された平国盛である。補任時の除目表は残っていないが、摂関家有力家司藤原邦綱がこの日に越後国から伊予守に遷任している。伊予守はそれまで清盛の嫡子重盛が国守で清盛の知行国であったが、清盛の知行国が備前に移動している。『愚管抄』によれば、後白河院が備前国を清盛の知行国として御願寺蓮華王院を造営させ、長寛二年一二月一七日に供養が行われた。造営は伊予国が知行国の時点から開始されているが、造営を名目に備前国で知行国の継続が認められたのであろう。
 そして供養の日に清盛の嫡子重盛が正三位に叙せられているが、それは蓮華王院を造営した国司の功を譲られたものであった。最初に確認した史料編纂所データベースの重盛死亡時の史料総覧の記事(それまでの公卿補任の記述がまとめられている)には国司清盛から譲られたとあり、とまどったが、五味文彦氏『平清盛』で確認すると、「清盛」は「国盛」の誤りであった。国会図書館デジタルの公卿補任、重盛が正三位に叙せられた際の史料総覧の記事も「国盛」となっていた。たまたま、最初にみた記事が誤っていた。
 前に述べたように、越後守邦綱は忠通知行国の国守であったが、伊予守邦綱は独立した忠通有力家司として支配であった。越後は忠通の知行国のままで、国守は過去に忠通知行国備前の国守であった源信時であった。

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