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2021年4月21日 (水)

大家庄の領家3

 大家庄は忠通ないしはその娘皇嘉門院を本家として成立した。次いで皇嘉門院領の大半を譲られた九条兼実が本家となったが、区分の上では最勝金剛院領を構成する所領となった。兼実は元久元年には所領を後鳥羽天皇の中宮で院号宣下により宜秋門院となった娘立子に譲り、そこでは最勝金剛院領ではなく、女院庁分御領に位置づけられた。建暦二年に女院が院号を辞すると、領家でもあった九条良平が本家を兼ね、立子が死亡する(一二月二八日)直前の暦仁元年一二月一四日に成恩院に本家職を施入した。
 領家職は良平、高実、忠基と継承され、弘長三年二月に忠基が死亡した後はその母である藤原経通の娘が領家となった。その後を考えるヒントとなるのは、娘が父経通から継承した越前国小山庄を忠基の子円雄(興福寺で修行)が継承していることである(嘉元四年亀山院領目録)。関係文書は興福寺一条院文書として残っている。大家庄領家職もやはり仏門に入った忠基の子によって継承された可能性が高い。結果として領家職は九条家を離れ、仏門関係者により継承されたと思われる。
 大家庄領家発給文書としては建治三年一〇月九日沙弥上蓮奉領家某袖判御教書(益田家文書)と嘉暦三年四月一五日領家某袖判御教書(吉川家文書)がある。

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