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2021年4月18日 (日)

大家庄の領家1

 大家庄関係者の系図については、コロナが一段落したところで、編纂所に行って確認する予定だが、以前、皇嘉門院から大家庄領家に補任された藤原頼輔について、訂正した。その続報を述べる。それまでは藤原北家忠教の子頼輔に比定していた。忠教は中宮聖子の大夫も務めており、その関係かと思ったが、実際には藤原顕輔の子頼輔であった。顕輔は顕季の子で長実・家保の同母弟である。長実の晩年の娘得子を寵愛した鳥羽院はその兄弟姉妹(ただしその甥は美福門院知行国の国守に起用)には厳しい態度を取ったが(何度も述べた様に崇徳天皇が行ったものではない)、家保と顕輔の子達は優遇している。その代表が家保の三男家成であり、参議止まりであった家保を超えて大納言にまで登用した。家成の同母兄である長男顕保に対して家保が修理大夫を辞して譲ろうとしたが、家成が介入してその人事を潰した。異母兄である二男家長は公卿にはならなかったが、受領を歴任し、多数の鳥羽院庁下文の署判者としてみえている。ただし、家成との間は険悪であった。顕保についても性格が悪かったとする日記の記述もある。
 顕輔は白河院により昇殿を止められたが、その死後は復権している。顕輔は15才時の子である清輔との関係はよくなかったとされるが、39才時と42才時に家女房との間に産まれた重家と季経を重視し、両人は摂関家に仕える一方で院政下で昇進し公卿となった。家成の娘を妻とした重家の人事はある時期、美福門院分国の国守と連動しており、美福門院との関係も有していた。
 頼輔は顕輔と藤原盛輔の娘との間に生まれた。その姉妹には頼長の母がおり、異母兄顕憲も頼長に仕え、その子二人が保元の乱で配流処分を受けている。
 こうした背景のもと、頼輔は藤原忠通の子聖子(皇嘉門院)とその異母弟で聖子の猶子となっていた九条兼実の側近となり、頼輔の娘(皇嘉門院女房)が兼実との間に良平を生んだ。頼輔の子基輔も兼実の側近として兼実知行国美作・伯耆・安芸で国守を務めている。大家庄領家職は頼輔から子基輔に継承されたと思われる。問題はその後である。基輔は元暦二年(一一八五)六月三日に「忽然而逝去」し、兼実を悲しませている(『玉葉』)。その時点では父(頼輔)と母は健在であったが、残された行輔は一二才であった。兼実は六月一〇日に源資賢が辞退したことで知行国として得た和泉の国守に行輔を起用し、文治三年一二月八日には行輔を兵衛佐に申任じている(『玉葉』)。
不記:長野庄ではなく大家庄の勘違いであり訂正。

 

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