koewokiku(HPへ)

« 斐伊川西流路の消滅時期 | トップページ | 三月の近況 »

2021年3月 4日 (木)

崇徳院子元性について

 崇徳院の第二子元性(覚恵)の誕生が、仁平三年三月に源義朝が叙爵と同時に下野守に補任された背景だとしたが、元性に関する情報はWikipedia等のネット上の二次的情報に依存しており、その誕生が仁平二年であった根拠については未確認であったので、その他の情報を含めて確認する。Wikiには覚恵で掲載されており、以下で述べる内容の概況が記されているが、最初に「第五皇子」と記されているのには戸惑いを覚えた。
 元性の祖父源師経は師隆の子で、その母は勧修寺流藤原為房の娘である。師経と熱田大宮司季範の娘(義朝室の姉妹)の間に生まれたのが隆保と崇徳院参河権守局と呼ばれた娘であったのは前述の通りだが、師経の子には鎌倉永福寺別当となり、建保元年九月十八日に死亡した経玄もいた。母に関する情報は無いが、鎌倉の有力時院の別当となったのは隆保等の同母弟であったためだろう。経玄は保元二年十二月一七日に寛暁大僧正から法を授けられている。保元の乱で崇徳院が讃岐国に配流されるとその子重仁は仁和寺に入り出家し、やはり寛暁大僧正のもとで仏道に励んだとされる。
 「血脈類集記六」に元暦元年一〇月一一日に三十四才で死亡したことが記されており、元性が仁平元年の生まれであったことがわかる。元性は十二才となった応保二年に叔父(崇徳院同母弟)で仁和寺第五世門跡であった覚性法親王のもとに入室し、その後仁和寺華蔵院に住し法印に叙せられた。父崇徳院と同様歌を好んだようで(祖母待賢門院には歌会などの記録はない)、三代集を授けられていた(和歌口傳一〇)。
 『吾妻鏡』文治四年一〇月四日条には、朝廷から申し入れのあった備前国福岡庄について、頼朝が請文を提出したことが記されている。福岡庄は『一遍上人絵伝』に記された福岡市で有名であるが、没官領として元暦元年に頼朝に与えられた。これに対して宮法印元性から父讃岐院の国忌を勤修する料を求める希望があり、頼朝は福岡庄を寄進した。ところが前述のように一〇月一一日に元性が死亡したため、混乱が発生したと思われる。『吾妻鏡』元暦二年五月一日条によると、去年福岡庄を寄進したが牢籠しているとのことで、これに替えて備中国妹尾郷を崇徳院法華堂領として寄進している。元性が死亡したため、今回の寄進先は重仁の母兵衛佐局尼であった。この中で、尼を「武衛の親類」であると記していた。翌文治二年三月二日には藤原光能後室比丘尼阿光(足立遠元の娘)の訴えを受け、相伝の家領である丹波国栗村庄への武士の狼藉を停止し、崇徳院御領として年貢を備進し、領家(比丘尼阿光)の進止に従うことを命じた下文を出している。
 以上、頼朝の母方の従兄弟にあたる元性について情報を整理した。なお、『本朝皇胤紹運録』と『華頂要略』(仁和寺院家伝)にも元性に関する情報が記されている。 

« 斐伊川西流路の消滅時期 | トップページ | 三月の近況 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 斐伊川西流路の消滅時期 | トップページ | 三月の近況 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ