koewokiku(HPへ)

« 藤原懐遠とその周辺1 | トップページ | 藤原懐遠とその周辺3 »

2021年3月29日 (月)

藤原懐遠とその周辺2

 関屋が資光と結婚した背景は中御門家を介した関係と学問であろう。宗忠は資光の二一才年長であるが、資光との間に「父子契」を結ぶほどにその学識を高く評価していた。そして資光が璋子に仕える中で、その妻関屋も女房として仕えるようになったと思われる。宗忠は鳥羽院と璋子の第二皇女として生まれた統子内親王の初斎院の際に上卿を勤めたこともあって、しばしば統子の御所を訪れていた。宗忠の娘と德大寺公能との間に生まれた公親は天承元(一一三一)年の生まれであり、その婚姻が結ばれたのは宗忠の晩年であった。忠興-宗忠-統子-待賢門院というルートであろう。
 康和三年(一一〇一)一一月二五日に正六位上藤原懐遠が、斎院当年給として諸司助に補任されんことを望んで、縫殿助に補任されている。この時点で二〇才と仮定すると、忠興が三一才時の子となる。この時点の斎院である白河院第四皇女禎子(禛子)内親王と関係があったことになる。康和五年(一一〇三)八月二七日には立太子された宗仁親王の侍者の一人として「縫殿助藤懐遠」がみえる。翌長治二年(一一〇四)一〇月三日には中御門宗忠が弟宗輔、嫡子宗能、庶子宗成とともに中御門北対に初めて渡った際の前駈として縫殿助懐遠がみえ、父忠興が陰陽師に禄を与えている。
 嘉承元年一一月九日には春日祭使の共人の中に懐遠がみえ、次いで一二月二八日に中御門宗忠が権中納言に補任されたことにより慶賀を申した際の前駈に、子宗能・宗成とともに懐遠がみえる。翌年二月一〇日には宗忠が大原野祭幣のため出立した際の前駈五人の中に懐遠がみえるが、他の四人が五位であったのに対して、この時点でも懐遠は六位であった。一二月二五日に嫡子宗能が別家した際の前駈としても懐遠がみえる。その後も宗能が嫡子藤原為隆に聟入した際と庶子宗重が遠江守基俊に聟入りした際も懐遠が前駈を勤めている。

 

« 藤原懐遠とその周辺1 | トップページ | 藤原懐遠とその周辺3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 藤原懐遠とその周辺1 | トップページ | 藤原懐遠とその周辺3 »

2021年5月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ