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2021年3月31日 (水)

通季と信通

 待賢門院璋子の同母兄には西園寺通季と德大寺実能がいるが、通季が大治三年(一一二八)に三九才で死亡した事が閑院流内の問題のみならず、鳥羽院と崇德天皇のその後に大きな影響を与えたが、ここでは通季とセットで記録に登場することが多い、藤原信通を併せて確認する。
 信通は白河院に重用された中御門流宗通と藤原顕季の娘との間に寛治五年(一〇九一)に生まれた。宗通は持明院基頼より二九才、中御門宗俊より二五才下で父俊家晩年の子であったがため、一二才で父を亡くし、幼いころから白河院のもとで育った。同母弟には伊通(二才下)、季通、成通(六才下)、重通(八才下)がおり、季通以外の三人は父宗通の正二位権大納言を超えて正二位大納言以上(伊通は太政大臣)まで進んだ。また同母姉(一才上)の宗子は藤原忠通との間に崇德天皇中宮聖子を産んでいる。
 通季は信通の一才年長であるが、嫡子公通を産んだ藤原忠教の娘とともに、顕季の嫡子長実の娘を妻としていた。通季が承徳二年(一〇九八)正月に九才で叙爵したのに対して信通の叙爵はその二年後で十才時であった。これ以降も一才年長の通季が一年~三年先行して昇進している。蔵人頭補任は通季が三年早かった(天永二年)が、通季の参議補任と同時に蔵人頭となった信通はそのわずか四ヶ月後に参議に補任されている。従三位に叙せられたのは両方とも永久五年(一一一七)一一月であった。
 信通はその三年後の保安三年に三〇才で死亡し、次弟伊通がそのポジションを継承して出世していく。通季は正三位権中納言にまで進んだが、白河院より一年早く、大治三年に三九才で死亡した。通季の一一才年長の長兄実隆と一〇才年長の次兄実行はともに藤原基貞の娘を母としていたが、待賢門院璋子の同母兄通季が出世のトップに立っていた。この通季が死亡した前年には長兄実隆も死亡しており、閑院流内部では実能と一六才年長の異母兄実行のいずれが中心となるかが問題となった。
 白河院が死亡した大治四年時点の現職公卿をみると五~六〇才代が一四人、二~三〇代(忠通、有仁、雅定、実能、伊通)が五人と中核となる四〇代が一人もいない。通季と信通が健在であれば、四〇才と三九才であり、まさに鳥羽院政を主導する立場となったことは確実である。これに替わって鳥羽院政下で重要な役割を与えられたのは、勧修寺流の中心となった顕頼(顕隆子、鳥羽院より九才年長)であり、鳥羽院より四才年少の家成であった。鳥羽院が早くから政治の主導権を確保できたのもこのためであった。両人が健在であれば、崇徳天皇の伯父ならびに、中宮聖子の叔父であり、その後の歴史は大きく変わったであろう。

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