koewokiku(HPへ)

« 駿河守藤原信輔1 | トップページ | 淡路守藤原懐経 »

2021年3月10日 (水)

駿河守藤原信輔2

 信輔がいつまで若狭守であったのか、さらにはいつから武蔵守に補任されたかについても明証を欠いている。そこで問題となるのが、長承三年三月二六日時点で駿河守であったとする『中右記』の記述である。これによれば駿河守は忠能→信輔→経雅と交替したことになる。これに対して五味文彦氏の受領表では、忠能から保延二年末に経雅に交替したとしている。
 三月二六日は法勝寺で千僧御読経が行われ、内(崇德天皇)の御誦経使として駿河守が参入し、次いで藤原教長が参入したとする。長承二年二月九日の春日祭上卿を頼長が務めた際には、内殿上人として右馬頭忠能がみえ、院殿上人として若狭守信輔がみえる。教長の父忠教は長承三年三月には出家した源能俊の後任として中宮大夫(崇德天皇中宮聖子)となり、教長本人も保元の乱では崇德院方となった数少ない公卿であり、配流先から帰還を許された後は崇徳院の除霊を働きかけたように、崇徳天皇との関係が大変深かった。これに信輔が駿河守であったことを示す史料がこれ以外にないことから、天皇が派遣した駿河守は兄忠能の誤りで、五味氏の説が正しいと考える。
 関連して、保延元年五月日待賢門院庁下文と翌二年二月一一日鳥羽院庁牒の署判者として「右馬頭兼駿河守藤原朝臣」みえるが、経忠の子で右馬頭に補任されたことが確認できるのは忠能のみである。ここからも五味氏の説くように、忠能→経雅が正しい。信輔は若狭守を二期八年務めた後に藤原公信と相博して武蔵守に遷任したと考えられる。信輔が武蔵守在任中の保延四年四月一六日に父経忠は出家し、七月一六日には死亡したが、信輔は二期八年武蔵守に在任し、藤原季行と相博して因幡守に遷任し、三度二期八年を務めた後に退任し、これ以降は自らの子を国守として知行国主となった。
 以上のように、信輔は駿河守に在任したとするのは『中右記』の誤記であり、信輔の国守歴任に関する五味氏の説は正しかった。
追記:前述の待賢門院庁下文と鳥羽院庁牒には「武蔵守藤原朝臣」として信輔も署判者にみえている。これと長承三年三月二六日の「駿河守信輔」(信輔は分かち書き)から、「右馬頭兼駿河守」を以前は経雅に比定していたが、経雅は右馬頭に補任されたことはないし、経親と同様、鳥羽院庁下文ないしは牒の署判者として確認できない。同母兄弟四名のうち、長子忠能に次いで優遇されたのは四子の信輔であった。こういう事はよくある例である。

 

« 駿河守藤原信輔1 | トップページ | 淡路守藤原懐経 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 駿河守藤原信輔1 | トップページ | 淡路守藤原懐経 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ