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2021年3月28日 (日)

淡路守藤原懐経2

 播磨国の作業には一〇日以上を要し、泥沼にはまったような状況でブログの記事をアップする余裕がなかったが、ようやく終わり、美作国にうつった。その作業の中で、淡路守懐経が知行国主德大寺実定のもとでの国守であることが確認できたので、以下に述べる。
 白河・鳥羽院政期の美作守も院近臣が続けて補任されている。長治元年(一一〇四)一月には勧院流藤原通季が一五才で国守に補任された。九才で叙爵し、その後は越中権守、右兵衛佐、左少将と受領とは無縁の経歴であったが、知行国主公実(父)のもとで補任された。美作守の前任者は白河院寵臣藤原顕季、その前は藤原基隆であった。天永二年(一一一一)に父公実が死亡したため、二四才の通季が知行国主となり、一八才の同母弟実能が国守となった。元永元年一二月末に通季の知行国は加賀へ遷り、相博して藤原顕輔が美作守となった。五味文彦氏の推定するように顕輔の父顕季の知行国となった。顕季と通季は共に名前に「季」を含むが、前述のように、顕季の嫡子長実(通季より一五才年長)の娘が通季の室となっていた。
 その後、勧修寺流藤原顕頼の同母弟顕能、平実親(国主)の子と思われる親家、藤原家保の子家長、持明院基家(分国主統子内親王)をへて、保元元年(一一五六)九月に德大寺公能(国主)の子実守が一〇才で美作守となった。公能は応保元年(一一六一)八月に死亡したが、実守の地位は保たれた。五味氏の受領表では推定されていないが、公能の嫡子で実守の同母兄実定が国主を継承したためであろう。そして長寛元年一二月二二日に平清盛の子宗盛が美作守に補任された。清盛の知行国淡路と実定の知行国美作で相博が行われたが、すでに従四位上右中将となっていた実守に替わって、藤原懐経が淡路守に補任された。
 以上により、懐経補任の背景に德大寺実定がいたことは確実となった。となると同時期に懐経の父懐遠が国守に補任された下野国は実定の同母姉である後白河院皇后であった忻子の分国であった可能性が高くなった。その枠の中で藤原光能が懐遠から譲られる形で下野守に起用され、それまでの不遇な状況から、公卿になる起点となった。なお、尊卑分脈では懐遠について下野守以外に「淡路守・伊賀守・相模守」の尻付があるが、国守補任は下野のみでその他は権守ないしは父忠興(相模守)、子懐経(淡路守・伊賀守)の官職が紛れこんだものであろう。

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