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2021年3月29日 (月)

藤原懐遠とその周辺3

 この懐遠が叙爵したのは大治四年(一一二八)正月六日の除目で、推定四八才となる。式部省の枠での叙爵であり、父忠興と同様、式部丞であったと思われる。同じ日に、日野資光の娘待賢門院阿波と妻とする日野資憲が蔵人・検非違使枠で叙爵しているが、こちらは推定一〇代前半である。この日野資光も式部権少輔(保安四年一〇月一五日)、式部少輔(大治三年一二月)とみえている(死亡記事によると権少輔が正しい)。その後しばらく懐遠に関する史料はみあたらず、長寛元年一二月二二日(五味氏の推定年に月日を当方が加えた)に下野守に補任され、翌二年六月二〇日の国司庁宣が残っている。推定八二才で初めて国司に補任され、次いでそれを、これまた叙爵後長らく散位であった藤原光能に譲った。この背景に皇后宮忻子と同母弟德大寺実定がいたことは前述の通りである。
 懐遠と德大寺氏を結ぶのは、前述のように、二人の父德大寺公能が中御門宗忠の娘を妻として、子公親が生まれたことであろう。懐遠-宗忠-公能-実定・忻子というつながりである。懐遠の年齢を考えると、光能への交替は予定されていた可能性が大きい。以上、下野守藤原懐遠とその周辺について確認した。繰り返しとなるが、光能は本来は非後白河側の人物であり、その才能から登用されたが、彼を後白河院の寵臣と呼ぶのは誤りである。

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