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2021年3月14日 (日)

淡路守藤原懐経

 淡路国司の作業は平実親関係史料が多く手間取ったが、ようやく終わりそうである。そうした中、気になるいくつかの点に関して整理したい。
   永万元年(一一六五)四月一六日の賀茂斎王禊に皇后宮使として派遣されたのは淡路守兼権大進藤原懐経であるが、尊卑分脈には官職に関して「皇后宮大進」の尻付のみみえる。皇后宮とは後白河天皇に入内して皇后となった藤原忻子である、忻子は父德大寺公能と藤原俊忠の娘豪子(その母は藤原顕隆娘)との間に生まれ、嫡子実定の同母姉である。忻子が中宮から皇后になったのは平治元(一一五九)年二月二一日のことである。懐経の淡路守補任時期は前任の平宗盛が美作守に遷任した長寛元年一二月二〇日であろう。懐経の母ならびに德大寺氏との関係は不明だが、注目すべき点は、懐経の父懐遠も同時期(日付を示す史料はないが、五味文彦氏の考察による)に下野守に補任され、分脈には「皇后宮大進」の尻付がある。
 公卿補任には懐遠が光能に下野守を譲ったとある。「知行国主・国司一覧」(飯田悠紀子氏作成)では「懐遠」を大江信遠と解釈し、下野国を後白河院の分国としているが、両者の間に関係はなく成り立たない。
 懐遠・懐経父子ともに忻子に仕え、同時期に受領に任官したことになるが、その背後にいた人物としては永暦二年八月一一日に父公能が四七才で死亡した跡をうけ徳大寺家当主となった実定が考えられる。長寛元年末の時点では従二位権中納言であった。後白河准母として立后された統子内親王の皇后宮大夫となり、統子の院号宣下後は上西門院別当となっていた。実定が同母姉忻子の皇后宮大夫となったのは永万(一一六七)二年正月一二日で、二年前に女院の母待賢門院の異母弟季成が死亡して空席となっていた地位についた。
 懐経の前任の淡路守は清盛の子宗盛で、淡路国は清盛の知行国であった。仁安二年閏七月一二日の除目では、懐経は伊賀守に遷任し、平経正が淡路守に補任されているが、五味氏は同日付で美作守を止められ、八月一日の除目で参議に補任され公卿となる右中将宗盛が知行国主であったとする。
 話を戻すと、懐遠が永万元年一二月に辞職し、その跡に補任された光能については前にも述べたことがあるが、父忠成の異母姉妹が実定の母で、光能の姉妹が公能の妾となっており、やはり德大寺氏と関係を有していた。そこから、懐遠・懐経父子と光能が国守に在任していた時期の淡路国と下野国は実定の知行国であったと考えられる。実定は永万元年八月一七日に権大納言を辞して正二位に叙せられた。一〇月には本座に復しているが、嘉応二年七月には皇后宮大夫も辞して無官となり、還任して大納言に補任されたのは権中納言辞任の一二年後の治承元年三月五日であった。

 

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