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2021年3月29日 (月)

藤原懐遠とその周辺1


 前述のように、懐遠は忠興の子で、待賢門院関屋の兄弟である。関屋は待賢門院判官代から別当となった日野資光の妻であった。懐遠の母ならびに妻に関する情報がないため懐遠が下野守を藤原光能に譲った背景は不明だが、とりあえず父忠興と併せてその動向を確認する。
 忠興に関する尊卑分脈の記載のうち、相模守以外は確認できないとしたが、相模守補任についても確認はできなかった。これこそ相模権守であったかもしれない。摂関家家司が相模権守に補任されるケースは珍しくない。ただし、忠興と摂関家の関係も確認できなかった。忠興と懐遠は中御門宗忠やその子が任官したり、聟入りを行った際に前駈をつとめている。『中右記』長承一年閏四月四日条には忠興がこの日の午刻に八一才で死亡した記事がみられる。宗忠が記す死亡記事には後で他者から聞いたものもあるが、忠興については中御門家の家臣というべき存在であり、その動向を把握していたのだろう。
 管見の限りでは忠興の初見史料は『中右記』寛治六年(一〇九二)八月五日条で、四月二六日に権大納言に昇進した藤原宗俊(宗忠父)が初めての着陣となったため、その前駈を務めた六人の中の一人にみえるが、四名が五位であったのに対して忠興と定遠は六位であった。この時点で忠興は四一才であり、この後、叙爵したかどうかも確認できない。
 忠興は「進士」とも呼ばれているが、平安末期では漢文作成の試験で選ばれた文章生の別称である。家格は高くはないが、学識があったのであろう。その後、兵部丞(一一〇七年在任、五六才)と式部丞(一一一四年補任、六三才)であったことがわかる。大丞でも正六位相当の官職である。
 日野資光は忠興より三一才年少であり、その妻となった忠興娘関屋も同世代であろう。日野家も代々学問の家で、摂関家との間に強い関係を有していた。一方、忠興が前駈を務めたり、その連絡役をつとめた中御門家は、摂関家との関係が深かった。忠実の母全子は宗俊の一四才年少の妹である。系図には記載がないが、忠実と宗忠の関係からすれば、宗俊の同母妹である可能性もある。

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