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2021年3月14日 (日)

淡路守藤原長経

 承安元年(一一七一)一二月に平宗盛の知行国は淡路から播磨に遷った。その際の国守は不明だが(淡路守だった経正は兵衛佐とみえる)、安元元年には早世した基盛の遺児行盛が国守に補任された。これは五味文彦氏の説で、氏はそれまでの播磨国は摂政基房の知行国で国守は藤原隆親であったとする。隆親は藤原忠隆の嫡子で早世した隆教の子である。基房の知行国は播磨から大宰府に遷り、藤原重家が大宰大弐に補任された。淡路国は大宰大弐であった藤原信隆の知行国となり、その子長経が淡路守に補任された。ただし播磨国については『播州増位山随願寺集記』(兵庫県史史料編中世四)の中に、「仁安三年に太政大臣平清盛が知行国主となり金堂・法華三昧堂の造改を始め、嘉応元年に造営が完了した」ことが記されていた。現時点の当方の見解は、仁安三年に基房の知行国は相模国に遷り、次いで承安元年末に大宰府に遷ったというものである。その場合、宗盛知行国播磨は父清盛のものを継承したことになるが、清盛時代の国守も不明である。
 話を淡路国に戻すと、信隆の子長経は、嫡子信清が中央の官職を歴任して公卿となったのに対して、淡路以外の受領に補任されることはなく、『尊卑分脈』には「大皇太后宮亮」との尻付がみられる。これをみて思い出したのが、元暦元年三月二七日の左馬頭補任に続いて六月五日には藤原忠季に替えて讃岐守に補任された一条能保が、仁安二年一二月一三日の補任以来務めてきた大皇太后宮権亮を藤原長経に譲ったとの公卿の補任の尻付であった。能保は父通重が早世したため官職には恵まれなかったが、妹聟源頼朝が鎌倉を拠点に軍事活動を拡大して後白河院がこれを認めると、以後は急速に出世した。通重の死後は同母弟基家を祖とする一流が持明院氏の中心であった。この長経と信隆の子長経は同一人物であろう。長経は信隆の子の中では嫡子信清(一一五九年生)と生年が近いと思われるが、その名には父信隆、祖父信輔と共通する字が含まれていない。信清は待賢門院との関係が深かった持明院通基(通重の父)の娘が母であるが、長経は同母兄弟であろうか。ちなみに、通基には長基という「長」を名前につけた子がいる。能保から権亮を譲られたことからすると、同母であろうが、その名と経歴からは嫡子との差が明らかであった。

 

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