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2021年3月14日 (日)

紀伊国司藤原季光

 藤原光能が初めて受領となった下野国は德大寺実定の知行国であったとの説を示したが、前述のように実定は正二位に叙せられるために権中納言を辞したが、その後一二年は公卿会儀の参加はなく、その政治的地位の低下が見られた。淡路守懐経が遷任した伊賀国もまた実定の知行国であったと思われるが、嘉応元年三月五日に源雅亮が国守に補任されたことで、実定の知行国はみられなくなった。
 これに対して下野守光能は後白河院にその能力を買われ、仁安二年一二月三〇日には藤原季光を紀伊守として知行国主の座を手に入れた。季光の関係史料は仁安四年一月二八日紀伊国司庁宣のみであるが、公卿補任藤原定家の項には、仁安元年一二月三〇日に叙爵し、翌年一二月三〇日に紀伊守に補任された時点で、それまでの光季を季光に改めた旨が記されている。安元元年一二月八日には父俊成が右京大夫を辞して侍従に申任じたことが記されているが、玉葉の同日条には藤原定家が侍従に補任された旨が記されており、この時点までには季光を定家に改めていたことがわかる。ただし、五味文彦氏は紀伊守光季は定家とは別人で光能の子であるとの説を示している。その根拠が示されないため、その成否は今一つ不明であるが、残された史料をみる限り、藤原俊成の子が光能の養子となり、最初は光季、次いで季光と改名したとの記述は正しいと思われる。三七才であった光能は適当な男子がなかったため、三〇才年少の従兄弟を養子として国守に補任した。ただし、その時点では光能自身の子が誕生していたため、嫡子としての光季から名前を変更して季光とし、次いで紀伊守退任の三年後に実父俊成によって侍従に補任された。定家の同母兄成家が叙爵した九年半後に定家が叙爵している。これは紀伊守補任を前提とするものであった。俊成は二度辞職して成家と定家を侍従に申任じているが、その時期には一〇年一一ヶ月の開きがある。叙爵より一年五ヶ月開きが大きいが、嫡子と庶子の差であろう。
 以上のように、同母兄成家の経歴と定家の経歴の間には矛盾がみられない。光季は一期四年在任した後に紀伊守を退任し、実父俊成のもとに戻ったと考えられる。とはいえ、定家の専論のある五味氏のもとには当方の知らない情報がある可能性があることは否定できない。俊成は光能の父忠成の同母弟である。


 

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