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2021年3月

2021年3月31日 (水)

通季と信通

 待賢門院璋子の同母兄には西園寺通季と德大寺実能がいるが、通季が大治三年(一一二八)に三九才で死亡した事が閑院流内の問題のみならず、鳥羽院と崇德天皇のその後に大きな影響を与えたが、ここでは通季とセットで記録に登場することが多い、藤原信通を併せて確認する。
 信通は白河院に重用された中御門流宗通と藤原顕季の娘との間に寛治五年(一〇九一)に生まれた。宗通は持明院基頼より二九才、中御門宗俊より二五才下で父俊家晩年の子であったがため、一二才で父を亡くし、幼いころから白河院のもとで育った。同母弟には伊通(二才下)、季通、成通(六才下)、重通(八才下)がおり、季通以外の三人は父宗通の正二位権大納言を超えて正二位大納言以上(伊通は太政大臣)まで進んだ。また同母姉(一才上)の宗子は藤原忠通との間に崇德天皇中宮聖子を産んでいる。
 通季は信通の一才年長であるが、嫡子公通を産んだ藤原忠教の娘とともに、顕季の嫡子長実の娘を妻としていた。通季が承徳二年(一〇九八)正月に九才で叙爵したのに対して信通の叙爵はその二年後で十才時であった。これ以降も一才年長の通季が一年~三年先行して昇進している。蔵人頭補任は通季が三年早かった(天永二年)が、通季の参議補任と同時に蔵人頭となった信通はそのわずか四ヶ月後に参議に補任されている。従三位に叙せられたのは両方とも永久五年(一一一七)一一月であった。
 信通はその三年後の保安三年に三〇才で死亡し、次弟伊通がそのポジションを継承して出世していく。通季は正三位権中納言にまで進んだが、白河院より一年早く、大治三年に三九才で死亡した。通季の一一才年長の長兄実隆と一〇才年長の次兄実行はともに藤原基貞の娘を母としていたが、待賢門院璋子の同母兄通季が出世のトップに立っていた。この通季が死亡した前年には長兄実隆も死亡しており、閑院流内部では実能と一六才年長の異母兄実行のいずれが中心となるかが問題となった。
 白河院が死亡した大治四年時点の現職公卿をみると五~六〇才代が一四人、二~三〇代(忠通、有仁、雅定、実能、伊通)が五人と中核となる四〇代が一人もいない。通季と信通が健在であれば、四〇才と三九才であり、まさに鳥羽院政を主導する立場となったことは確実である。これに替わって鳥羽院政下で重要な役割を与えられたのは、勧修寺流の中心となった顕頼(顕隆子、鳥羽院より九才年長)であり、鳥羽院より四才年少の家成であった。鳥羽院が早くから政治の主導権を確保できたのもこのためであった。両人が健在であれば、崇徳天皇の伯父ならびに、中宮聖子の叔父であり、その後の歴史は大きく変わったであろう。

2021年3月29日 (月)

藤原懐遠とその周辺3

 この懐遠が叙爵したのは大治四年(一一二八)正月六日の除目で、推定四八才となる。式部省の枠での叙爵であり、父忠興と同様、式部丞であったと思われる。同じ日に、日野資光の娘待賢門院阿波と妻とする日野資憲が蔵人・検非違使枠で叙爵しているが、こちらは推定一〇代前半である。この日野資光も式部権少輔(保安四年一〇月一五日)、式部少輔(大治三年一二月)とみえている(死亡記事によると権少輔が正しい)。その後しばらく懐遠に関する史料はみあたらず、長寛元年一二月二二日(五味氏の推定年に月日を当方が加えた)に下野守に補任され、翌二年六月二〇日の国司庁宣が残っている。推定八二才で初めて国司に補任され、次いでそれを、これまた叙爵後長らく散位であった藤原光能に譲った。この背景に皇后宮忻子と同母弟德大寺実定がいたことは前述の通りである。
 懐遠と德大寺氏を結ぶのは、前述のように、二人の父德大寺公能が中御門宗忠の娘を妻として、子公親が生まれたことであろう。懐遠-宗忠-公能-実定・忻子というつながりである。懐遠の年齢を考えると、光能への交替は予定されていた可能性が大きい。以上、下野守藤原懐遠とその周辺について確認した。繰り返しとなるが、光能は本来は非後白河側の人物であり、その才能から登用されたが、彼を後白河院の寵臣と呼ぶのは誤りである。

藤原懐遠とその周辺2

 関屋が資光と結婚した背景は中御門家を介した関係と学問であろう。宗忠は資光の二一才年長であるが、資光との間に「父子契」を結ぶほどにその学識を高く評価していた。そして資光が璋子に仕える中で、その妻関屋も女房として仕えるようになったと思われる。宗忠は鳥羽院と璋子の第二皇女として生まれた統子内親王の初斎院の際に上卿を勤めたこともあって、しばしば統子の御所を訪れていた。宗忠の娘と德大寺公能との間に生まれた公親は天承元(一一三一)年の生まれであり、その婚姻が結ばれたのは宗忠の晩年であった。忠興-宗忠-統子-待賢門院というルートであろう。
 康和三年(一一〇一)一一月二五日に正六位上藤原懐遠が、斎院当年給として諸司助に補任されんことを望んで、縫殿助に補任されている。この時点で二〇才と仮定すると、忠興が三一才時の子となる。この時点の斎院である白河院第四皇女禎子(禛子)内親王と関係があったことになる。康和五年(一一〇三)八月二七日には立太子された宗仁親王の侍者の一人として「縫殿助藤懐遠」がみえる。翌長治二年(一一〇四)一〇月三日には中御門宗忠が弟宗輔、嫡子宗能、庶子宗成とともに中御門北対に初めて渡った際の前駈として縫殿助懐遠がみえ、父忠興が陰陽師に禄を与えている。
 嘉承元年一一月九日には春日祭使の共人の中に懐遠がみえ、次いで一二月二八日に中御門宗忠が権中納言に補任されたことにより慶賀を申した際の前駈に、子宗能・宗成とともに懐遠がみえる。翌年二月一〇日には宗忠が大原野祭幣のため出立した際の前駈五人の中に懐遠がみえるが、他の四人が五位であったのに対して、この時点でも懐遠は六位であった。一二月二五日に嫡子宗能が別家した際の前駈としても懐遠がみえる。その後も宗能が嫡子藤原為隆に聟入した際と庶子宗重が遠江守基俊に聟入りした際も懐遠が前駈を勤めている。

 

藤原懐遠とその周辺1


 前述のように、懐遠は忠興の子で、待賢門院関屋の兄弟である。関屋は待賢門院判官代から別当となった日野資光の妻であった。懐遠の母ならびに妻に関する情報がないため懐遠が下野守を藤原光能に譲った背景は不明だが、とりあえず父忠興と併せてその動向を確認する。
 忠興に関する尊卑分脈の記載のうち、相模守以外は確認できないとしたが、相模守補任についても確認はできなかった。これこそ相模権守であったかもしれない。摂関家家司が相模権守に補任されるケースは珍しくない。ただし、忠興と摂関家の関係も確認できなかった。忠興と懐遠は中御門宗忠やその子が任官したり、聟入りを行った際に前駈をつとめている。『中右記』長承一年閏四月四日条には忠興がこの日の午刻に八一才で死亡した記事がみられる。宗忠が記す死亡記事には後で他者から聞いたものもあるが、忠興については中御門家の家臣というべき存在であり、その動向を把握していたのだろう。
 管見の限りでは忠興の初見史料は『中右記』寛治六年(一〇九二)八月五日条で、四月二六日に権大納言に昇進した藤原宗俊(宗忠父)が初めての着陣となったため、その前駈を務めた六人の中の一人にみえるが、四名が五位であったのに対して忠興と定遠は六位であった。この時点で忠興は四一才であり、この後、叙爵したかどうかも確認できない。
 忠興は「進士」とも呼ばれているが、平安末期では漢文作成の試験で選ばれた文章生の別称である。家格は高くはないが、学識があったのであろう。その後、兵部丞(一一〇七年在任、五六才)と式部丞(一一一四年補任、六三才)であったことがわかる。大丞でも正六位相当の官職である。
 日野資光は忠興より三一才年少であり、その妻となった忠興娘関屋も同世代であろう。日野家も代々学問の家で、摂関家との間に強い関係を有していた。一方、忠興が前駈を務めたり、その連絡役をつとめた中御門家は、摂関家との関係が深かった。忠実の母全子は宗俊の一四才年少の妹である。系図には記載がないが、忠実と宗忠の関係からすれば、宗俊の同母妹である可能性もある。

2021年3月28日 (日)

淡路守藤原懐経2

 播磨国の作業には一〇日以上を要し、泥沼にはまったような状況でブログの記事をアップする余裕がなかったが、ようやく終わり、美作国にうつった。その作業の中で、淡路守懐経が知行国主德大寺実定のもとでの国守であることが確認できたので、以下に述べる。
 白河・鳥羽院政期の美作守も院近臣が続けて補任されている。長治元年(一一〇四)一月には勧院流藤原通季が一五才で国守に補任された。九才で叙爵し、その後は越中権守、右兵衛佐、左少将と受領とは無縁の経歴であったが、知行国主公実(父)のもとで補任された。美作守の前任者は白河院寵臣藤原顕季、その前は藤原基隆であった。天永二年(一一一一)に父公実が死亡したため、二四才の通季が知行国主となり、一八才の同母弟実能が国守となった。元永元年一二月末に通季の知行国は加賀へ遷り、相博して藤原顕輔が美作守となった。五味文彦氏の推定するように顕輔の父顕季の知行国となった。顕季と通季は共に名前に「季」を含むが、前述のように、顕季の嫡子長実(通季より一五才年長)の娘が通季の室となっていた。
 その後、勧修寺流藤原顕頼の同母弟顕能、平実親(国主)の子と思われる親家、藤原家保の子家長、持明院基家(分国主統子内親王)をへて、保元元年(一一五六)九月に德大寺公能(国主)の子実守が一〇才で美作守となった。公能は応保元年(一一六一)八月に死亡したが、実守の地位は保たれた。五味氏の受領表では推定されていないが、公能の嫡子で実守の同母兄実定が国主を継承したためであろう。そして長寛元年一二月二二日に平清盛の子宗盛が美作守に補任された。清盛の知行国淡路と実定の知行国美作で相博が行われたが、すでに従四位上右中将となっていた実守に替わって、藤原懐経が淡路守に補任された。
 以上により、懐経補任の背景に德大寺実定がいたことは確実となった。となると同時期に懐経の父懐遠が国守に補任された下野国は実定の同母姉である後白河院皇后であった忻子の分国であった可能性が高くなった。その枠の中で藤原光能が懐遠から譲られる形で下野守に起用され、それまでの不遇な状況から、公卿になる起点となった。なお、尊卑分脈では懐遠について下野守以外に「淡路守・伊賀守・相模守」の尻付があるが、国守補任は下野のみでその他は権守ないしは父忠興(相模守)、子懐経(淡路守・伊賀守)の官職が紛れこんだものであろう。

2021年3月14日 (日)

紀伊国司藤原季光

 藤原光能が初めて受領となった下野国は德大寺実定の知行国であったとの説を示したが、前述のように実定は正二位に叙せられるために権中納言を辞したが、その後一二年は公卿会儀の参加はなく、その政治的地位の低下が見られた。淡路守懐経が遷任した伊賀国もまた実定の知行国であったと思われるが、嘉応元年三月五日に源雅亮が国守に補任されたことで、実定の知行国はみられなくなった。
 これに対して下野守光能は後白河院にその能力を買われ、仁安二年一二月三〇日には藤原季光を紀伊守として知行国主の座を手に入れた。季光の関係史料は仁安四年一月二八日紀伊国司庁宣のみであるが、公卿補任藤原定家の項には、仁安元年一二月三〇日に叙爵し、翌年一二月三〇日に紀伊守に補任された時点で、それまでの光季を季光に改めた旨が記されている。安元元年一二月八日には父俊成が右京大夫を辞して侍従に申任じたことが記されているが、玉葉の同日条には藤原定家が侍従に補任された旨が記されており、この時点までには季光を定家に改めていたことがわかる。ただし、五味文彦氏は紀伊守光季は定家とは別人で光能の子であるとの説を示している。その根拠が示されないため、その成否は今一つ不明であるが、残された史料をみる限り、藤原俊成の子が光能の養子となり、最初は光季、次いで季光と改名したとの記述は正しいと思われる。三七才であった光能は適当な男子がなかったため、三〇才年少の従兄弟を養子として国守に補任した。ただし、その時点では光能自身の子が誕生していたため、嫡子としての光季から名前を変更して季光とし、次いで紀伊守退任の三年後に実父俊成によって侍従に補任された。定家の同母兄成家が叙爵した九年半後に定家が叙爵している。これは紀伊守補任を前提とするものであった。俊成は二度辞職して成家と定家を侍従に申任じているが、その時期には一〇年一一ヶ月の開きがある。叙爵より一年五ヶ月開きが大きいが、嫡子と庶子の差であろう。
 以上のように、同母兄成家の経歴と定家の経歴の間には矛盾がみられない。光季は一期四年在任した後に紀伊守を退任し、実父俊成のもとに戻ったと考えられる。とはいえ、定家の専論のある五味氏のもとには当方の知らない情報がある可能性があることは否定できない。俊成は光能の父忠成の同母弟である。


 

淡路守藤原長経

 承安元年(一一七一)一二月に平宗盛の知行国は淡路から播磨に遷った。その際の国守は不明だが(淡路守だった経正は兵衛佐とみえる)、安元元年には早世した基盛の遺児行盛が国守に補任された。これは五味文彦氏の説で、氏はそれまでの播磨国は摂政基房の知行国で国守は藤原隆親であったとする。隆親は藤原忠隆の嫡子で早世した隆教の子である。基房の知行国は播磨から大宰府に遷り、藤原重家が大宰大弐に補任された。淡路国は大宰大弐であった藤原信隆の知行国となり、その子長経が淡路守に補任された。ただし播磨国については『播州増位山随願寺集記』(兵庫県史史料編中世四)の中に、「仁安三年に太政大臣平清盛が知行国主となり金堂・法華三昧堂の造改を始め、嘉応元年に造営が完了した」ことが記されていた。現時点の当方の見解は、仁安三年に基房の知行国は相模国に遷り、次いで承安元年末に大宰府に遷ったというものである。その場合、宗盛知行国播磨は父清盛のものを継承したことになるが、清盛時代の国守も不明である。
 話を淡路国に戻すと、信隆の子長経は、嫡子信清が中央の官職を歴任して公卿となったのに対して、淡路以外の受領に補任されることはなく、『尊卑分脈』には「大皇太后宮亮」との尻付がみられる。これをみて思い出したのが、元暦元年三月二七日の左馬頭補任に続いて六月五日には藤原忠季に替えて讃岐守に補任された一条能保が、仁安二年一二月一三日の補任以来務めてきた大皇太后宮権亮を藤原長経に譲ったとの公卿の補任の尻付であった。能保は父通重が早世したため官職には恵まれなかったが、妹聟源頼朝が鎌倉を拠点に軍事活動を拡大して後白河院がこれを認めると、以後は急速に出世した。通重の死後は同母弟基家を祖とする一流が持明院氏の中心であった。この長経と信隆の子長経は同一人物であろう。長経は信隆の子の中では嫡子信清(一一五九年生)と生年が近いと思われるが、その名には父信隆、祖父信輔と共通する字が含まれていない。信清は待賢門院との関係が深かった持明院通基(通重の父)の娘が母であるが、長経は同母兄弟であろうか。ちなみに、通基には長基という「長」を名前につけた子がいる。能保から権亮を譲られたことからすると、同母であろうが、その名と経歴からは嫡子との差が明らかであった。

 

淡路守藤原懐経

 淡路国司の作業は平実親関係史料が多く手間取ったが、ようやく終わりそうである。そうした中、気になるいくつかの点に関して整理したい。
   永万元年(一一六五)四月一六日の賀茂斎王禊に皇后宮使として派遣されたのは淡路守兼権大進藤原懐経であるが、尊卑分脈には官職に関して「皇后宮大進」の尻付のみみえる。皇后宮とは後白河天皇に入内して皇后となった藤原忻子である、忻子は父德大寺公能と藤原俊忠の娘豪子(その母は藤原顕隆娘)との間に生まれ、嫡子実定の同母姉である。忻子が中宮から皇后になったのは平治元(一一五九)年二月二一日のことである。懐経の淡路守補任時期は前任の平宗盛が美作守に遷任した長寛元年一二月二〇日であろう。懐経の母ならびに德大寺氏との関係は不明だが、注目すべき点は、懐経の父懐遠も同時期(日付を示す史料はないが、五味文彦氏の考察による)に下野守に補任され、分脈には「皇后宮大進」の尻付がある。
 公卿補任には懐遠が光能に下野守を譲ったとある。「知行国主・国司一覧」(飯田悠紀子氏作成)では「懐遠」を大江信遠と解釈し、下野国を後白河院の分国としているが、両者の間に関係はなく成り立たない。
 懐遠・懐経父子ともに忻子に仕え、同時期に受領に任官したことになるが、その背後にいた人物としては永暦二年八月一一日に父公能が四七才で死亡した跡をうけ徳大寺家当主となった実定が考えられる。長寛元年末の時点では従二位権中納言であった。後白河准母として立后された統子内親王の皇后宮大夫となり、統子の院号宣下後は上西門院別当となっていた。実定が同母姉忻子の皇后宮大夫となったのは永万(一一六七)二年正月一二日で、二年前に女院の母待賢門院の異母弟季成が死亡して空席となっていた地位についた。
 懐経の前任の淡路守は清盛の子宗盛で、淡路国は清盛の知行国であった。仁安二年閏七月一二日の除目では、懐経は伊賀守に遷任し、平経正が淡路守に補任されているが、五味氏は同日付で美作守を止められ、八月一日の除目で参議に補任され公卿となる右中将宗盛が知行国主であったとする。
 話を戻すと、懐遠が永万元年一二月に辞職し、その跡に補任された光能については前にも述べたことがあるが、父忠成の異母姉妹が実定の母で、光能の姉妹が公能の妾となっており、やはり德大寺氏と関係を有していた。そこから、懐遠・懐経父子と光能が国守に在任していた時期の淡路国と下野国は実定の知行国であったと考えられる。実定は永万元年八月一七日に権大納言を辞して正二位に叙せられた。一〇月には本座に復しているが、嘉応二年七月には皇后宮大夫も辞して無官となり、還任して大納言に補任されたのは権中納言辞任の一二年後の治承元年三月五日であった。

 

2021年3月10日 (水)

駿河守藤原信輔2

 信輔がいつまで若狭守であったのか、さらにはいつから武蔵守に補任されたかについても明証を欠いている。そこで問題となるのが、長承三年三月二六日時点で駿河守であったとする『中右記』の記述である。これによれば駿河守は忠能→信輔→経雅と交替したことになる。これに対して五味文彦氏の受領表では、忠能から保延二年末に経雅に交替したとしている。
 三月二六日は法勝寺で千僧御読経が行われ、内(崇德天皇)の御誦経使として駿河守が参入し、次いで藤原教長が参入したとする。長承二年二月九日の春日祭上卿を頼長が務めた際には、内殿上人として右馬頭忠能がみえ、院殿上人として若狭守信輔がみえる。教長の父忠教は長承三年三月には出家した源能俊の後任として中宮大夫(崇德天皇中宮聖子)となり、教長本人も保元の乱では崇德院方となった数少ない公卿であり、配流先から帰還を許された後は崇徳院の除霊を働きかけたように、崇徳天皇との関係が大変深かった。これに信輔が駿河守であったことを示す史料がこれ以外にないことから、天皇が派遣した駿河守は兄忠能の誤りで、五味氏の説が正しいと考える。
 関連して、保延元年五月日待賢門院庁下文と翌二年二月一一日鳥羽院庁牒の署判者として「右馬頭兼駿河守藤原朝臣」みえるが、経忠の子で右馬頭に補任されたことが確認できるのは忠能のみである。ここからも五味氏の説くように、忠能→経雅が正しい。信輔は若狭守を二期八年務めた後に藤原公信と相博して武蔵守に遷任したと考えられる。信輔が武蔵守在任中の保延四年四月一六日に父経忠は出家し、七月一六日には死亡したが、信輔は二期八年武蔵守に在任し、藤原季行と相博して因幡守に遷任し、三度二期八年を務めた後に退任し、これ以降は自らの子を国守として知行国主となった。
 以上のように、信輔は駿河守に在任したとするのは『中右記』の誤記であり、信輔の国守歴任に関する五味氏の説は正しかった。
追記:前述の待賢門院庁下文と鳥羽院庁牒には「武蔵守藤原朝臣」として信輔も署判者にみえている。これと長承三年三月二六日の「駿河守信輔」(信輔は分かち書き)から、「右馬頭兼駿河守」を以前は経雅に比定していたが、経雅は右馬頭に補任されたことはないし、経親と同様、鳥羽院庁下文ないしは牒の署判者として確認できない。同母兄弟四名のうち、長子忠能に次いで優遇されたのは四子の信輔であった。こういう事はよくある例である。

 

駿河守藤原信輔1

 信輔は経忠と閑院流公実の娘実子との間に生まれ、忠能・経親・経雅とは同母兄弟であるが、只一人、祖父師信の一字をその名に付けている。坊門家と水無瀬家はともに信輔の子孫から出ている。系図の記載順からすると信輔は経親と経雅の間で三男となるが、『中右記』四月一三日条には経忠三男で中務少輔としては「年少」とあり、これによれば信輔は四男となる。
 長子忠能の計歴は公卿補任に不備があり、康治三年以前が不明であるが、元永一年一月二四日以前に少納言に補任されている。次いで保安二年六月二六日には父経忠が右馬頭を辞して忠能を申し任じている。忠能は大治四年二月一七日には駿河守を兼任し、右馬頭在任は長承二年二月九日まで、駿河守在任は同年七月一三日までは確認できるが、実際に両職をいつ退任したかは不明である。
 次子経親は、永久四年一月一四日には従五位上に叙され、それ以前に中務少輔に補任されていた。次いで元永一年三月二七日までには右兵衛佐に補任されている。三子経雅は元永二年七月三〇日に淡路守に補任されているが、前述のようにそれ以前に中務少輔に補任されていた。ただし、淡路守補任は前任者藤原説雅が在任半年で死亡したためであった。四子信輔は保安一年二月一四日に左衛門佐に補任され、天治一年六月五日以前に経雅の後任の淡路守となっていた(御産部類記)。
 嫡子である長子忠能は少納言(二六才以前)、右馬頭(二八才)をへて三六才で駿河守となった。次子経親は中務少輔に補任された後に二二才以前に従五位上に叙せられていた。四子信輔が兄経雅に替わって淡路守に補任された年次は保安四年と五年の可能性があるが、経雅は前任者の任期を受け継いだ可能性が高く、信輔は引き続き若狭守に遷任している点からすると、保安四年一月二二日(公卿補任)に信輔に交替し、一期四年務めた可能性が高い(五味氏の補任表でも保安四年としている)。

2021年3月 8日 (月)

三月の近況

 退職後4回目の年度末を迎えた。五味氏作成の表を増補した院政期国司表は4ヶ月でようやく半分を超えた。残りは県史などが整備されていない都道府県が多いが、なんとかまとめたい。アップしている記事以外にも多くのネタはあるが、とりあえずは現在の作業の完了を優先している。
 囲碁の農心杯は、現在世界ランキング1位の韓国申眞諝九段(21)が中国棋士三人と日本棋士二人の五人抜きを行い、韓国が優勝した。中国の五人目柯潔九段は、唯一申九段が苦手としていたが、今回は勝利した。
 韓国には同年齢の申旻埈九段がおり、今年二月には柯潔九段を破ってLG坏で優勝した。後者の申九段には最近、一力、芝野両九段が勝利し、農心坏では井山・一力九段への期待が高まったが、やはり持ち時間への対応で課題があるようだ。国内の棋士では一力九段の強さが際立っている。今後一年間の本因坊、名人、棋聖戦ではいずれも挑戦者になる可能性が高く、二日制での井山・一力戦がみられそうである。とはいえ、一力九段に匹敵する若手棋士の登場が必要である。小学1年生で院生となった天才棋士がいるようだが、これもAIソフトの利用が可能としたもので、最終的な器の大きさはまだわからない。
 ホンダベゼルのモデルチェンジが近づき、一部の情報が先行して提供されているが、肝心の新世代プラットフォームなのか、フィットからの流用なのかは不明である。前者であれば、前宣伝で公表しているはずであり、後者である可能性が高い。現時点では両プラットフォームは一長一短であろうが、年数が経つにつれ、旧のデメリットが大きくなる。はっきししているのは車重が100Kg近く重たくなることであるが、それ以上に今後ののびしろが少ないのが問題である。普通は同一プラットフォームは二回までだが、日産セレナは驚きの三回目の使用で、それゆえに次のモデルチェンジが早そうである。プロパイロットが売だが、土台は、スライドドアという国内専用車ゆえに古いのである。ただし、新しくなってかえって評価がさがる場合もある。車の値段が相対的に上昇しているのは日本経済が成長率で世界から大きくとり残されているからである。一九六六年登場のカローラは1,100ccで四〇万円、一九七九年登場のアルトは550ccで全国統一価格四七万円であった。
 菅政権を本気で支持している人は皆無であろうが、日銀を利用した株価つり上げを継続してほしいと思う人がコアな支持者となっている。これにより将来の富が失われるとともに、経済成長できない日本が継続している。問題は政権を変えられないことだが、野党以上に、無能な指導者を交替させられない自民党がガンである。自民党がまともなら、安倍政権は短命で終わったであろうし、菅政権など生まれなかった。以前も述べたが、江戸時代には「藩主押し込め」の慣行があった。

2021年3月 4日 (木)

崇徳院子元性について

 崇徳院の第二子元性(覚恵)の誕生が、仁平三年三月に源義朝が叙爵と同時に下野守に補任された背景だとしたが、元性に関する情報はWikipedia等のネット上の二次的情報に依存しており、その誕生が仁平二年であった根拠については未確認であったので、その他の情報を含めて確認する。Wikiには覚恵で掲載されており、以下で述べる内容の概況が記されているが、最初に「第五皇子」と記されているのには戸惑いを覚えた。
 元性の祖父源師経は師隆の子で、その母は勧修寺流藤原為房の娘である。師経と熱田大宮司季範の娘(義朝室の姉妹)の間に生まれたのが隆保と崇徳院参河権守局と呼ばれた娘であったのは前述の通りだが、師経の子には鎌倉永福寺別当となり、建保元年九月十八日に死亡した経玄もいた。母に関する情報は無いが、鎌倉の有力時院の別当となったのは隆保等の同母弟であったためだろう。経玄は保元二年十二月一七日に寛暁大僧正から法を授けられている。保元の乱で崇徳院が讃岐国に配流されるとその子重仁は仁和寺に入り出家し、やはり寛暁大僧正のもとで仏道に励んだとされる。
 「血脈類集記六」に元暦元年一〇月一一日に三十四才で死亡したことが記されており、元性が仁平元年の生まれであったことがわかる。元性は十二才となった応保二年に叔父(崇徳院同母弟)で仁和寺第五世門跡であった覚性法親王のもとに入室し、その後仁和寺華蔵院に住し法印に叙せられた。父崇徳院と同様歌を好んだようで(祖母待賢門院には歌会などの記録はない)、三代集を授けられていた(和歌口傳一〇)。
 『吾妻鏡』文治四年一〇月四日条には、朝廷から申し入れのあった備前国福岡庄について、頼朝が請文を提出したことが記されている。福岡庄は『一遍上人絵伝』に記された福岡市で有名であるが、没官領として元暦元年に頼朝に与えられた。これに対して宮法印元性から父讃岐院の国忌を勤修する料を求める希望があり、頼朝は福岡庄を寄進した。ところが前述のように一〇月一一日に元性が死亡したため、混乱が発生したと思われる。『吾妻鏡』元暦二年五月一日条によると、去年福岡庄を寄進したが牢籠しているとのことで、これに替えて備中国妹尾郷を崇徳院法華堂領として寄進している。元性が死亡したため、今回の寄進先は重仁の母兵衛佐局尼であった。この中で、尼を「武衛の親類」であると記していた。翌文治二年三月二日には藤原光能後室比丘尼阿光(足立遠元の娘)の訴えを受け、相伝の家領である丹波国栗村庄への武士の狼藉を停止し、崇徳院御領として年貢を備進し、領家(比丘尼阿光)の進止に従うことを命じた下文を出している。
 以上、頼朝の母方の従兄弟にあたる元性について情報を整理した。なお、『本朝皇胤紹運録』と『華頂要略』(仁和寺院家伝)にも元性に関する情報が記されている。 

2021年3月 1日 (月)

斐伊川西流路の消滅時期

 「斐伊川東流」を考えるという特集を含む松江市史研究12号が刊行されたので、表記の問題について補足したい。七月末に原稿を提出して以降、二度の校正はあったが、自分としてはすでに終わった問題で、とりわけ一一月以降は五味氏に連絡を取りつつ「院政期受領表」作成作業に集中していた。
 今改めて原稿を読みなおすと、訂正すべき点があることに気付いた。それは慶長一五年に鉄穴流しを禁止したことを契機に、西流路を埋める作業が開始されたかのように記していたが、広瀬(富田)から松江への城下町移転は長期にわたる検討を経て慶長一二年に開始されている。その時点では西流路を消滅させる作業もまた開始されていたとみるべきであろう。斐伊川を東流路のみとしたのはひとえに城下町松江の軍事的機能を高めるためであった。これにより松江へ流れ込む水量が飛躍的に増加し、城周辺の堀川のみならず、低湿地帯の水量が豊かになり、松江は人馬による攻撃が困難な都市となった。
 一方、斐伊川上流三郡(能義郡、仁多郡、大原郡)における鉄穴流しの隆盛により、その土砂が松江城下町に及んで、せっかくの軍事的機能を弱めることが予想された。そのための対策を行うため、一時的に鉄穴流しを松江藩が禁止した。これに対して三郡からは一日も早い鉄穴流しの解禁を求める要望が出された。さらには東流路周辺、並びにその延長線上にある松江城下で水害・洪水が発生する危険性は増大し、実際に多発していた。対策として藩が行った作業としては、宍道湖東部の海底並びに大橋川や松江城下の堀の底を開削するぐらいしか思いつかない。これを行うことで、宍道湖と中海のバランスが崩れ、日本海の海水が宍道湖に流入しやすくなり、淡水と海水が混じり合う汽水湖としての環境が生まれたと思われる。
 鉄穴流しを解禁すると、松江藩が行った対策は帳消しとなり、しばらくすると、再び一時的に鉄穴流しを禁止しなければならなくなる。寛永一三年に解禁されたのは十分な対策がとられたというよりは、旧豊臣系大名との間の軍事的緊張が緩和したためであった。それゆえ。解禁後は流域での洪水防止のための普請が中心となった。とはいえ、鉄穴流しと普請との関係はいたちごっごであり、幕末にいたるまで治水対策に悩まされることとなる。
 松江藩で洪水発生により農業生産が大打撃を受けたのは延宝二年(1674)であった。松江藩の収納高はその前後の平年の五割強に留まった。後に水害で水に濡れ判読が困難となった検地帳を照合・復元する作業が行われている。その範囲は藩内のほとんどの郡に及んでおり、各地で洪水が起きたかと思ったが、確認すると、松江藩の検地帳を保管する蔵が被害を受けたことによるものであった。当然、水害の被害を想定して保管場所を決めていたが、想像以上に水位が上昇した。その意味では、天正元年の斐伊川流域の洪水と同様の被害であった。
 現在残っている堀尾期の検地帳は慶長一〇年から一三年分が皆無である。まさにこの時期に西流路を埋める作業が行われた可能性が高い。慶長一五年以降の早い時期に西流路が消滅したのではなく、慶長一五年までに消滅したと訂正する。

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