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2021年2月15日 (月)

藤原長実の知行国から1

 この問題については五味文彦氏が美福門院知行国との関係で論じられ、それが通説となっているが、詳細を検討すると以下のように疑問が生じてくるので、確認してみたい。
 五味氏が関係史料としてあげられたのは、1)大治五年九月日大山庄田堵等解と2)天承元年一〇月二九日丹波国大山庄下司・住人等解文に対する外題安堵に付せられた花押がいずれも長実のものであること、3)『中右記』長承元年一一月二三日条に「藤中納言長実子息等、件一門課四ヶ国、尾張・丹波・伯耆・備後」とあることである。この年の五節舞姫の雑事が諸国に課された中で、尾張(二男顕盛)、丹波(娘聟公通)、伯耆(子時通、宗通養子)、備後(子長親)が長実の関係者=一門が国司であった。
 尾張守は保安四年中に院近臣藤原敦兼から長実の子長親に交替し、次いで嫡子(同母兄顕経は早世ヵ)顕盛が在任していた。丹波守は中宮璋子の同母兄通季の嫡子公通がつとめていたが、通季は大治三年六月に死亡している。公通の地位に変更はなかったが、前述のように、長実が外題安堵を行っていた。長実が公通を聟としたのは1)の安堵の二ヵ月後の一二月二二日で、通季の死亡の二年半後であるが、前述のように、通季の妻(公通の母は藤原忠教の娘)の一人に長実の娘がいた。伯耆守は嫡子顕盛と相博する形で庶子長親が尾張守から遷任し、次いで長親は時通と相博して備後守に遷任した。四ヶ国の国守を関係者が占めていたが、それが即長実の知行国であるわけではない。
 五味氏も利用された史料に「寺門高僧記」があり、そこでは、藤原通季が加賀国の知行国主を辞して、重ねて備後国を賜って時通を備後守としたとする。確認すると、通季は同母弟実能と異母弟季成を国守として二期八年加賀国を知行国としたが、大治二年正月一九日には丹波国を知行国として嫡子公通を丹波守にした。園城寺再建が完了しなかったので、丹波国に加えて備後国を知行国として与えられ、妻の弟時通を国守とした。ところが半年もたたないうちに通季が死亡したため、その知行国の支配は妻の父長実が行い、園城寺再建を担当した。長実は大治五年に造営料所として伯耆国を与えられ、備後守時通を遷任させた。
 以上により、園城寺造営料所として加賀国が通季に与えられたが、完了しなかったので丹波国に変更した上で、備後国を加え、さらに通季の死後、長実がその再建を担当し、備後国に替えて伯耆国を与えられ、園城寺の再建を行い、長承三年八月二七日には金堂の供養が行われた。ただし、講堂と塔は造営されず、さらに保延二年には延暦寺によって金堂が焼かれてしまった。長実の知行国といっても園城寺造営料所とそれ以外は区別が必要である。後者は国を替えて継承される可能性があったが、前者は造営が終了すれば消滅するものである。長承元年一一月の四ヶ国のうち、丹波と伯耆が造営料所であり、尾張と備後が後者であった。ただし、尾張は嫡子顕盛が独立した国守である可能性が高い。すると、長実が死亡した時点での知行国は備後のみである。それゆえに備後国が最初に美福門院(当時は女御得子)の分国となった。

 

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