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2021年2月 3日 (水)

紀伊守藤原親能2

 ところが親能は在任期間が二年で保延六年四月三日には源雅重が紀伊守に補任された。七七才であった父行宗が大蔵卿を辞して子雅重を申任じたのである。この五ヵ月後には行宗の養女兵衛佐局が崇德天皇との間に重仁親王を産んでいる。今と異なり四月時点では子の性別は不明であるが、懐妊により親能から雅重への交替が実現した。崇徳天皇の外戚徳大寺実能が譲った形である。五味文彦氏が作成された表では、親能は紀伊守から若狭守に遷任したと解釈されているが、そうではなく、頼佐が若狭守であった。頼佐の前任の若狭守は藤原公信で、その祖父保実は閑院流公実(待賢門院、実能の父)の同母弟であった。五味氏が丹波守に遷任した公信の跡に親能が起用されたと考えられたのには一理あるが、紀伊守退任後散位となっていた親能が若狭守に補任されれ、その直後に辞退したのである。
 公信の後任頼佐は藤原顕隆の孫である。顕頼の同母弟であった父顕能が早世したため、幼少であった子の頼佐、重方、顕方は顕頼の庇護を受けた。重方は顕頼の娘を妻とし、顕方は顕頼の年の離れた異母弟顕長の猶子となっている。そして実能の室となり嫡子公能や頼長の室幸子を生んだ女性もまた顕隆の娘であった。その母は不明であるが、顕頼と顕能の間に生まれた同母姉妹である可能性が大きい。
 ということで、頼佐もまた実能と関わりを持っており、それに替わって紀伊守を退任して散位となっていた親能が若狭守に起用されたが、何らかの理由で辞退せざるを得ず、若狭守を退任して散位となったばかりの頼佐(新院=崇徳院判官代であった)が阿波守に補任されたのである。親能が死亡したわけではなく、仁平元年八月一〇日に、一一月に派遣される春日祭使隆長(頼長子)の供奉人が定められているが、その中に新院殿上人として雅重とともに親能がみえる。久寿二年六月八日には頼長北政所(実能娘幸子)の葬礼が行われているが、竈所役人として親能と頼佐がみえている。重方の子が鎌倉初期に隠岐国で関東御領の地頭となるとともに、所領押領を訴えられた重頼で、頼佐の子惟頼の関与が指摘されていた。
 高階泰重の生年は不明だが、大治五年(一一三〇)には藤原宗兼の娘(池禅尼、宗長と同様、日野有信の娘が母である可能性が高い)との間に泰経が生まれており、若狭守遷任時には三〇才前後であったと考えられる。

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