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2021年2月18日 (木)

加賀守藤原済綱1

 仁安元年八月二七日の除目で藤原基宗が七歳で上西門院分加賀の国守に補任されている。公卿補任には済綱を停めて補任したことが記され、『山槐記除目部類』同日条には「国次第有不審、仍如申文書次第持之、見之所書也」との尻付がある。これについて五味文彦氏は応保元年一〇月一九日に上西門院分国が能登国から加賀国に移り、済綱が国守に補任されていたのを、持明院基家と上西門院女房との間の子である基宗に交替させたと解釈された。従うべき見解であるが、なお関係史料確認したい。
 通説では上西門院分国とされるのは仁安元年八月二七日の加賀国以降とされている。五味文彦氏は持明院通基の知行国であった能登国(国守は子基家)が、久安四年一〇月一〇日に通基が死亡したことで待賢門院の娘統子内親王の知行国になったとされる。本ブロクでは、基家の前任の嫡兄通重が補任された保延六年四月七日以降、前斎院統子内親王の知行国で、その実質的支配にあたったのが通基であると述べてきた。通重と基家の母は源師隆の娘上西門院一条である。通基には西園寺公通(通季長子)の妻、藤原実綱(三条公教長子)の妻、藤原信隆(信輔長子)の妻となった娘があるが、その夫の年齢を勘案すると、いずれも通重・基家兄弟の同母姉であろう。
 能登国は大治元年に白河院近臣藤原敦兼の知行国となり、その子季兼・季行兄弟が一四年間に亘って国守を務めていた。このうち季行は後に美福門院との関係を深め高松院乳母夫となるが、本来は待賢門院、崇德天皇との関係が深かった。通重が能登守であった時期に摂関家領若山庄など大規模な庄園が次々に立券されたが、通基の父で持明院家の祖となった基頼も永久二年から元永二年にかけて能登守であった。
 久安四年正月に通重は父通基が保延六年四月まで国守であった丹波国に遷任し、弟基家が能登守となった。前任者の藤原公信は閑院流公実の同母弟保実の孫でやはり待賢門院との関係が深く、過去にも通基の後任として武蔵守に補任され、次いで藤原信輔と相博した若狭守をへて能登守となっていた。信輔も公実娘を母とし、通基の娘を妻とするなど待賢門院との関係が深かった。公信の子実清は崇徳院の申次をつとめ、保元の乱では崇徳院方となった。

 

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