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2021年2月 3日 (水)

紀伊守藤原親能1

 康治二年一月の除目で高階泰重が阿波守から若狭守に遷任している(本朝世紀)が、二七日条の泰重の尻付には応天門を修造した功であることと、藤原親能が辞退した替であることが記されている。同日条に阿波守に補任された藤原頼佐の尻付には「散位、新(崇徳)院判官代、泰重改若狭替」と記されている。ところが三〇日条には頼佐と泰重が相博したかのような記述があり、泰重には「元阿波」、頼佐には「元若狭」との尻付がみられる。泰重が阿波守から若狭守に遷任したことには問題がないが、頼佐は二七日条の「散位」と三〇日条の「元若狭」とどのように解釈したらよいだろうか。
 二七日条には「散位、新院御時蔵人」であった藤原朝方が淡路守に補任されているが、公卿補任で朝方の経歴を確認すると、七才であった永治元年一一月二七日に鳥羽院判官代から崇德天皇蔵人に補任され、一二月二日には高陽院臨時御給で叙爵しているが、七日には崇德天皇が退位したため散位となった。それが康治二年正月に信濃守に遷任した藤原賢行の後任として淡路守に補任されたのである。次いで四年任期満了直前の久安二年一二月二九日に重任し、久安四年正月五日には従五位上に叙されているが、これも「高陽院当年御給」であった。朝方の父朝隆は白河院近臣為房と藤原忠通の乳母讃岐宣旨との間に生まれており、摂関家との関係が深く、このことが忠通同母姉高陽院御給による叙位につながった。一方、讃岐宣旨の兄弟には待賢門院の関係者が多く、その一人法成寺上座執行増仁は崇徳院の御願寺成勝寺に三箇所を寄進している。朝隆自身も同母弟親隆とともに待賢門院判官代であった経歴を持っている。
 以上の点を踏まえると、当初二七日の除目では藤原親能が若狭守に補任されたが、何らかの理由で辞退したため、急遽、重任を認められていた泰重が若狭守に遷任し、若狭守を退任して散位となった頼佐が阿波守に補任されたと考えられる。頼佐の場合は一旦若狭守から散位となっていたのである。棚からぼたもちであるが、辞退した親能と頼佐の間には関係がないのだろうか。
 親能は系図には記載がないが、その名前と経歴からして徳大寺実能の関係者であろう。保延四年正月の除目で紀伊守に補任されているが、その前任者公重は大治五年正月に鳥羽院分として補任され、二期八年を務めている。待賢門院の同母兄西園寺通季の子として生まれたが、父が死亡したため、父の同母弟(叔父)実能の養子となっていた。公重は鳥羽院分として受領となった最後の人物で、且つ白河の死により一院となった鳥羽院唯一の院分受領である。院分の実態は様々であろうが、一院枠で起用されたことと、養父実能が知行国主であったことは確実であろう。親能が紀伊守に補任された時点では一院分受領そのものがみられなくなるが、紀伊国は実能の知行国であった。『国司一覧』にあるように、元久二年五月二七日関東下知状には「保延之頃徳大寺左大臣家国務御時」と記されている。

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