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2021年2月 9日 (火)

牛原庄と越前守2

 家保と相博して康和四年八月に丹後守から遷任して来て、長治元年末まで越前守であった高階為家もまた白河院近臣であり、その在任中に牛原庄に関する問題が生じていない。為家と相博して備中守から遷任してきた藤原仲実は摂関家家司を務める一方で、堀河天皇中宮篤子内親王(後三条天皇娘)に中宮権大進、亮として仕えていた。その二期八年が終了すると、家保の同母兄で白河院近臣である長実の子顕盛が越前守となった。顕盛には同母兄顕経がおり備前守となっていたが、在任途中で死亡したと思われる。そのため二男顕盛が嫡子として越前守となった。顕盛は白河院寵臣で、孫鳥羽院をないがしろにする行為があったため、白河院没後は鳥羽院に冷遇され公卿になることなく尾張守在任中に死亡している。死亡した顕経の後任として備前守に補任されたのは、六条持仏堂への所領寄進により、白河院に接近したことで知られる平正盛である。
 顕盛の在任が二期八年目前となった保安元年一一月に、平忠盛が顕盛と相博し伯耆守から越前守に遷任してきた。忠盛は父正盛と同様白河院近臣であり、父と郁芳門院との関係からしてその在任七年余に牛原庄への圧迫がなかったことは理解ができる。大治二年一二月には備前守藤原顕能が忠盛と相博して越前守に補任された。顕能は白河院近臣顕隆の子で、嫡子顕頼の同母弟であった。この顕能在任中に牛原庄への干渉が復活した。その原因は大治四年七月の白河院の急死であろう。干渉せんとする在庁官人の勢いがこれを阻止する顕能の意思の強さを上回ったのである。顕能の代には国司の任期中一度の引出物の課税が繰り返されるという問題も発生している。円光院からの訴えにより問題は解決したが、干渉と引出物の問題は顕能後任の高階盛章の補任直後も同様であった。そこで円光院では国司免判のみならず、官宣旨の発給を求め、長承元年九月二三日に獲得した。併せて堺を接する参議藤原成通領による押領を訴え、翌長承二年六月一四日官宣旨を獲得して、寛治四年の四至牓示の状況を再度認められた。とはいえ、保延四年一一月二八日国司庁宣と翌五年二月一九日庁宣が出されているように、在庁官人による干渉を完全に防ぐには到っていない。
 保延六年四月七日に高階盛章と相博して土佐守藤原顕保が越前守に遷任してくると、早速問題が発生し、引出物賦課を停止することを命じた鳥羽院宣が出されている。佐藤氏は家保から盛章までを第二期とし、白河・鳥羽院近臣の間で越前守が盥回しにされていることを特長とした。これに対して、顕保以降を三期としては美福門院の一族が国守となったとする。これに対して五味文彦氏の研究では、顕保の二代後の俊盛以降、美福門院の没まで越前国は女院分国であることが明らかにされた。

 

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