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2021年2月 9日 (火)

牛原庄と越前守5

 得子が鳥羽院の寵愛を受けるのは長承三年頃からだとされるが、特別な扱いを受けるのは保延元年末に長子叡子内親王が誕生してからであろう。翌二年四月一九日には従三位に叙せられており、この時点から関係する職員が配されたと思われるが、記録を欠いており不明である。院号宣下は久安五年八月三日であるが、保延二年正月二二日には、得子の異母兄顕盛の子俊盛が備後守に補任されている。前司はこれも異母兄弟長親であるが、五味文彦氏は知行国主長実が死亡した長承三年八月以降は、得子の知行国に準ずる形となったとされた。俊盛は五月一〇日には丹後守に遷任し、一一月四日には得子の乳母夫藤原親忠が安房守に補任され、得子の知行国が整備されていく。俊盛は天養元年一二月三〇日には惟方と相博する形で越前守に遷任している。この惟方と俊盛が国守であった時期に、牛原庄への国衙の介入停止について、「親忠」が申し入れを行っているが、いずれも乳母夫親忠と思われる。
 俊盛の時期は越前国は得子の分国(知行国)であるので理解可能である。すなわち、久安二年一一月六日に摂津守であった親忠が越前国目代に造新御願掃除人夫石料米等について牛原庄に課税しないよう伝え、同日付でその文書内容を伝えた鳥羽院宣が醍醐寺側に出されている。これに先立ち、康治二年四月に完成し移徒が行われた皇后御所の造営は丹後国と越前国が担ったが、その主担当者は当時安房守であった親忠であった。保延五年五月一八日に體仁親王が生まれると、八月一七日に崇德天皇の皇太子とされ、二七日には従三位であった得子が女御とされた。その時点で、永久五年一一月二六日の璋子の女御入内に準じて政所、侍所の別当や勾当が補任されたはずだが、史料は残っていない。
 次いで永治元年一二月七日の體仁が近衛天皇として即位すると、母得子は皇后宮となり、以下の役人が補任されたことが確認できる。
  大夫源雅定、権大夫藤原成通、亮藤原忠隆、大進藤原憲方、権大進藤原惟方・藤原顕遠
大夫雅定は村上源氏であるが得子の母の母体となった俊房流ではなく、永久の変により村上源氏の主流となった俊房の弟顕房流に属する。顕房の嫡子であった異母兄顕通が四〇才前半で死亡した時点でその子明雲(後の天台座主)、雅通はそれぞれ八才と五才であったため、雅定が雅通を養子として顕房流の中心となった。兄顕通が鳥羽院・待賢門両院の筆頭別当であった醍醐源氏能俊の娘を妻としたのに対して、雅定は得子の叔母(父長実妹)を室としていたが、両者の間に生まれた子は確認できない。

 

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