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2021年2月15日 (月)

藤原長実の知行国から2

 その後、伯耆国は藤原顕頼の知行国、丹波国は待賢門院庁の中心である持明院通基が国守となった。尾張は顕盛が死亡したことで摂関家家司源師盛が国司となり、次いでやはり家司である源成雅、源憲俊が続いた。残る備後は長親に代わって顕盛の子俊盛が国守となったが、半年後の保延二年五月一〇日には丹後守に遷任した。俊盛はその二年前の長承三年正月五日に一五歳で叙爵したが、恂子(後の統子)内親王御給であり、待賢門院との関係が深かった。それが二一日後の父顕盛の死により、前途は不透明となったが、鳥羽院は得子とその子の役人に意図的に待賢門院関係者を起用して取り込んだ。保延二年一一月四日には得子の乳母夫藤原親忠を安房守とし、この二ヶ国が得子の知行国(後の女院分国)となり、御所、持仏堂の造営を行い、次いで得子が産んだ體仁が近衛天皇として即位すると、皇后宮権大進に起用した藤原惟方(顕頼の嫡子光頼の一才違いの同母弟)が国司となった越前国にも造営を担わせ、天養元年一二月には惟方との相博により俊盛を越前守に遷任させ、女院が死亡する永暦元年末まで知行国として確保した。乳母夫親忠は安房守に続いて筑前守、摂津守、若狭守を歴任して引退し娘の子藤原隆信が越前守から遷任して後継した。親忠の子親弘は上野介、相模守を歴任したが、女院の分国であったかどうかは検討の余地がある。
 その後、俊盛の弟信盛が隠岐守、次いで親弘の後任として上野介に補任されたが、在任一年で死亡した。女院分国が増加する中、得子の兄異母兄長輔の庶子実清が仁平元年に一三歳で叙爵し、二年後の仁平三年には越前守に起用され、丹波守に遷任した。次いでその弟で十代前半と思われる長明が叙爵と同事に周防守に起用され、その兄で中央のポストを歴任してしていた隆輔がその後任となった。美福門院在世中の知行国の国司の補任状況は以上の通りである。長実の知行国四ヶ国を継承する形で美福門院の知行国(分国)が形成されたとする五味氏の解釈には検討の余地があり、女院分国の確定にも課題が残っている。俊盛のように、女院別当から娘八条院別当へ移行したが、その才能を見込まれて後白河院の近臣に組み込まれた人物もいた。また八条院の妹高松院に仕えた人々もいた。

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