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2021年2月 9日 (火)

牛原庄と越前守3

 顕保は家保の子で、鳥羽院寵臣家成の同母(崇德天皇乳母)兄で、鳥羽院の寵愛を受け二人の姉に続いて保延五年には體仁親王を産んだ得子の従兄弟である。佐伯智広氏は白河院が崇徳天皇側近の核として考えていた家成を鳥羽院が奪ってみずからの側近したとするが、この評価は妥当であろうか。家成はすでに白河院在世中の大治二年正月の除目で新院(鳥羽院)分として加賀守に補任されている。弟が同母兄を出世で上回るのは顕隆と兄為隆の例にみられるように、珍しいことではない。ただ、「家保辞宰相并修理大夫、以修理大夫譲長男顕保之間、三男家成朝臣申破之間、彼家中喧嘩無極云々」(中右記保延元年五月五日条)とあるのは異常事態である。家保は出世で遅れをとった顕保が公卿になれるように、修理大夫を譲ろうと手続きをとったが、鳥羽院寵臣家成がこれに反対して人事を潰してしまったのである。
 顕保と家成の間に異母兄弟(二男)家長がおり、家成と遜色のないほど鳥羽院庁下文の署判者としてみえるが、前述の家成の命令で陵辱を受けた元上野介高階敦政法師が仁平三年一一月に近江国で投身自殺をした記事につづいて、家成と異母兄家長の関係が悪い(不穆)ためだと記されている。家成が仲の悪い異母兄家長と親しい敦政を過去の事件(藤原顕盛と結んで鳥羽院の要望を握り潰した)にかこつけて死に追いやったのであろう。
 話を戻すと、家成が顕保の人事を潰した保延一年五月の待賢門院庁下文の署判者では家保はみえず、家成が別当の九番目(ただし、「左京大夫兼左馬頭播磨守」を誤って「左京大夫兼右馬頭摂津守」と記している)、土佐守顕保は一六番目にみえる。次いで翌二年二月一一日鳥羽院庁下文では「修理大夫兼近江権守」家保が七番目、家成が九番目、顕保が一六番目に署判している。家保が死亡するのは八月一四日であある。顕保は白河院没後の直後に新たに補任された待賢門院別当の中にみえ、保延三年二月には長承三年三月に鳥羽院に入内した忠実娘泰子の皇后宮亮となっている。顕保が越前守に補任されたのは、土佐守二期八年を三ヵ月超えて務めた後の保延六年四月七日であった。泰子が高陽院となって保延五年七月二八日に皇后宮亮を辞してのちは兼職はなく、それは播磨守在任中に死亡するまで変わらなかった。
 顕保は在任一年八ヵ月で播磨守に遷任した。一一世紀末の藤原顕季以降、播磨守は院近臣の指定席であったが、遷任一年後の康治元年一二月一三日鳥羽院庁下文の署判順位は六番目の権中納言家成に対して播磨守顕保は二七番目でしかなかった。受領の中でも一〇番目で、さらに一年九ヵ月後の天養元年九月二九日鳥羽院牒でようやく受領では尾張守忠盛に次ぐ二番目、全体では九番目の家成に対して一七番目であった。


 

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