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2021年2月 9日 (火)

牛原庄と越前守4

 顕保が播磨守に補任された経緯も単純ではない。永治元年一一月二七日に播磨守忠隆と伊与守清隆の間で相博が行われたが、その直後の一二月二日に清隆は播磨守を辞して子定隆を備中守に申任じ、その跡に越前守から顕保が遷任している。『清原重憲記』天養元年四月一六日条には
賀茂祭の皇后宮得子の使として忠隆が参加していたが、それは前日に顕保の妻である妹が死亡したことを秘したままのものであったことが記されている。顕保が父家保も務めた播磨守に補任されるように忠隆、並びに清隆が協力したのだろう。越前国も大国ではあるが、当時の播磨国は伊予国、讃岐国と並んで院近臣の中心人物(藤原家保・家成父子、藤原基隆・忠隆父子、藤原清隆)の間で盥回しにされていた。いずれも白河院とその養女待賢門院と関係が深かった実力者であり、それゆえに鳥羽院は家成を自らの寵臣とし、忠隆を皇后宮(得子)亮、清隆を春宮(體仁)亮に起用している。家成も母は崇徳天皇乳母であり、白河院近臣であった高階宗章の娘(隆季等母)ならびに藤原経忠の娘(成親等母)を妻としている。佐藤氏のようにこの時期の顕保について得子の甥としての面を強調するのは的はずれである。
 一二月二日、越前守には藤原顕頼の子惟方が補任されたが、惟方は二七日には皇后宮(得子)権大進に補任されている。一才年上の同母兄光頼は一二月二日に備中守から右少弁に転じ、以降は中央の官職を歴任するが、弟惟方は越前、丹波、遠江守を歴任する一方で、皇后宮(得子)権大進を務めていた。そして院号宣下により権大進を辞すと、勘解由次官に補任され、以降は中央の官職を歴任する。これは顕隆の嫡子顕頼と同母弟顕能の関係と同じである。顕頼も白河院政下では待賢門院(中宮璋子)との関係が中心であったが、父が死亡し鳥羽院政下となると鳥羽院との関係が中心となり、弟顕能が受領を歴任しつつ、女院との関係の中心となっている。
 以上、ながながと顕保について述べたのは、顕保を単に美福門院得子の甥という側面からみる佐藤氏の見方は不十分ということを明らかにするためである。鳥羽院は待賢門院とその縁者である閑院流との関係の再現をさけるため、得子の父方の縁者を排除し、唯一の例外が自らが寵愛した家成である。母方は村上源氏俊房流であるが、こちらも皇后宮と美福門院庁の関係者にはみえない。

 

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