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2021年2月25日 (木)

越中守顕定をめぐって1

 越中守顕定の関係史料は以下の通り。
1)鳥羽天皇第二皇子の誕生に際して保安五年(1124)三月一四日に御産定が作成されているが、そこでは若狭守藤原隆頼とともに各女房衝重卅前を負担することとなった(『御産部類記』)。
2)長承二年(1133)二月九日に春日祭使藤原頼長が出発したが、内殿上人一九名、院殿上人一二名が御共人としてみえる(『中右記』)。後者の中に越中守顕定がみえる。
3)同年七月一六日に権右中弁の太郎が加冠中御門宗忠、理髪源少将憲俊で元服をしたが、その際の指燭役を「其弟越中前司顕定」が行った。
これにより源姓であったことがわかるが、憲俊と弟顕定の父は源雅俊、母は源国明の娘であった。
 1)と2)によれば顕定は二期八年を超えて越中守を務め、3)の時点までに退任したことになるが、これと矛盾する史料がいくつもある。
4)天治二年一一月の五節の負担者として「越中顕俊」がみえる(『中右記目録』)。
5)大治元年二月二四日には德大寺実能の子公能が越中守となった(公卿補任)。
6)大治四年一二月二九日には知行国主実能と藤原顕頼の間で相博が行われ、紀伊国から顕頼の異母弟顕長が遷任して来た(『中右記』)。
  顕定は保延二年一二月一三日(『台記』)まで一貫して鳥羽院殿上人としてみえ、康治元年一二月一二日(『本朝世紀』)には「左馬権頭源顕定」とみえるが。左馬権頭補任時期は不明である。ただし、2)の時点ですでに「越中前司」であったことは確実で、残された問題は4)との関係である。源顕俊もまた雅俊の子であるが、その任官歴から顕広の年の離れた異母兄と思われる。1)の時点から間もなく顕定から異母兄顕俊に交替したとの解釈は加能だが、五味文彦氏作成の表では顕定は越中守のリストになく、顕俊が保安三年に河内守から遷任したことになっている。となると1)の顕定は「顕俊」の誤りとなるが、氏の表は三五年ほど前に作成されたもので、『仙洞御移徙部類記』(後に書陵部編の活字本が出版)の収録史料はほぼリストアップされているが、『御産部類記』の収録史料はほとんどリストに入っていない。1)の史料は五味氏の表でも『国司一覧』(ただし3には言及)でも未確認のものであった。

 

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