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2021年2月 9日 (火)

牛原庄と越前守6

 権大夫成通は白河院寵臣宗通の四男で、大治四年正月の除目で白河院が鳥羽院の了解を得ないまま成通を従三位に叙そうとしたことに対して、待賢門院璋子が苦言を呈して実現しなかったという人物である。永久五年一一月二六日に璋子が女御となった際には、侍所別当に補任され、保延元年五月日待賢門院庁下文では別当の七番目に署判を加えていた。亮忠隆はその妻が崇德天皇乳母であり、大進憲方は女院御願寺法金剛院の造営にあたり、女院の娘統子内親王にも仕えていた。権大進惟方は顕隆の孫(顕頼子)で一六才であったが、もう一人の顕遠は顕隆の同母弟長隆の子である。生まれた翌年に父が死亡したため、伯父顕隆の庇護を受けたことはその名顕遠からわかるが、叙爵したのは二三才とやや遅かった。その後、父が家司であった忠実の娘泰子の皇后宮少進から大進へ進む一方で摂津守に補任されたが、保延五年七月二八日に泰子が院号宣下を受けたため権大進を辞し、二年の空白を経て得子の権大進に起用された。こちらは三二才であり、その実務能力を期待されたのだろう。
 話を戻すと、惟方が越前守であった時期の親忠からの申し入れはどのような背景からなされたものであろう。佐藤氏は越前の国務を奉行していたと推定しているが、それでは久安二年と同じである。久安二年のように目代に伝えていれば正しいが、永治二年の場合は目代ではなく、鳥羽院並びに国守惟方に対しての書状と考えられる。親忠は得子の御所と御堂建立の責任者であり、それに関しては越前・丹後国司を指揮できたが、両国の国務全般を奉行していたわけではない。ただし、惟方は皇后宮得子の権大進であった。これをみた牛原庄住人側は有効な訴え先として得子(鳥羽院もか)を選んだのであろう。当座の対応として申状に対する惟方の外題安堵という方法をとった上で、七ヵ月後の康治元年一〇月には国司庁宣と鳥羽院宣が出されているが、久安二年は一一月に院宣とともに目代宛の親忠書状で解決しており、親忠書状が国司庁宣の代わりを果たしている。越前国は五味文彦氏の説くように惟方の父顕頼の知行国であったと考えられる。

 

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