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2021年3月 1日 (月)

斐伊川西流路の消滅時期

 「斐伊川東流」を考えるという特集を含む松江市史研究12号が刊行されたので、表記の問題について補足したい。七月末に原稿を提出して以降、二度の校正はあったが、自分としてはすでに終わった問題で、とりわけ一一月以降は五味氏に連絡を取りつつ「院政期受領表」作成作業に集中していた。
 今改めて原稿を読みなおすと、訂正すべき点があることに気付いた。それは慶長一五年に鉄穴流しを禁止したことを契機に、西流路を埋める作業が開始されたかのように記していたが、広瀬(富田)から松江への城下町移転は長期にわたる検討を経て慶長一二年に開始されている。その時点では西流路を消滅させる作業もまた開始されていたとみるべきであろう。斐伊川を東流路のみとしたのはひとえに城下町松江の軍事的機能を高めるためであった。これにより松江へ流れ込む水量が飛躍的に増加し、城周辺の堀川のみならず、低湿地帯の水量が豊かになり、松江は人馬による攻撃が困難な都市となった。
 一方、斐伊川上流三郡(能義郡、仁多郡、大原郡)における鉄穴流しの隆盛により、その土砂が松江城下町に及んで、せっかくの軍事的機能を弱めることが予想された。そのための対策を行うため、一時的に鉄穴流しを松江藩が禁止した。これに対して三郡からは一日も早い鉄穴流しの解禁を求める要望が出された。さらには東流路周辺、並びにその延長線上にある松江城下で水害・洪水が発生する危険性は増大し、実際に多発していた。対策として藩が行った作業としては、宍道湖東部の海底並びに大橋川や松江城下の堀の底を開削するぐらいしか思いつかない。これを行うことで、宍道湖と中海のバランスが崩れ、日本海の海水が宍道湖に流入しやすくなり、淡水と海水が混じり合う汽水湖としての環境が生まれたと思われる。
 鉄穴流しを解禁すると、松江藩が行った対策は帳消しとなり、しばらくすると、再び一時的に鉄穴流しを禁止しなければならなくなる。寛永一三年に解禁されたのは十分な対策がとられたというよりは、旧豊臣系大名との間の軍事的緊張が緩和したためであった。それゆえ。解禁後は流域での洪水防止のための普請が中心となった。とはいえ、鉄穴流しと普請との関係はいたちごっごであり、幕末にいたるまで治水対策に悩まされることとなる。
 松江藩で洪水発生により農業生産が大打撃を受けたのは延宝二年(1674)であった。松江藩の収納高はその前後の平年の五割強に留まった。後に水害で水に濡れ判読が困難となった検地帳を照合・復元する作業が行われている。その範囲は藩内のほとんどの郡に及んでおり、各地で洪水が起きたかと思ったが、確認すると、松江藩の検地帳を保管する蔵が被害を受けたことによるものであった。当然、水害の被害を想定して保管場所を決めていたが、想像以上に水位が上昇した。その意味では、天正元年の斐伊川流域の洪水と同様の被害であった。
 現在残っている堀尾期の検地帳は慶長一〇年から一三年分が皆無である。まさにこの時期に西流路を埋める作業が行われた可能性が高い。慶長一五年以降の早い時期に西流路が消滅したのではなく、慶長一五年までに消滅したと訂正する。

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