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2021年2月25日 (木)

越中守顕定をめぐって2

 顕定が越中守であったことは1)2)3)から確実であるが、一方で問題となるのが4)の顕俊である。顕俊の史料はこれのみであり、これが「顕定」の誤りである可能性もある。顕定の前任者はこれも異母兄弟俊親であり、俊親から顕定に交替し、顕定が一期四年つとめた後に、徳大寺公能に交替した可能性もある。
 彼らの父雅俊は村上源氏顕房流で白河院政期以降は兄俊房流に替わって中心となる。ただし公卿になるのは、藤原師実の養女となって白河天皇に入内した賢子の同母弟雅実の子孫である。同母妹は藤原忠実の正室として高陽院泰子と忠通を生んだ関係で、この一族は摂関家との関係を有する人物が多い。
 話を顕俊に戻すと、康和五年末には父雅俊の知行国である武蔵の国守となった。次いで弟俊親が嘉承二年初めに雅俊の知行国若狭の国守となった。俊親は七年後に越中守に遷任し、二期八年在任した。その跡に源顕定が補任されたと思われる。顕俊は武蔵守退任の一一年後に河内守に補任された。在任期間は不明だが、今回も一定期間を置いて、短期間陸奥守を務めた後に、鳥羽院の要望を握り潰した高階敦政が三年で辞任した跡の上野守に遷任している。
 3)にみえた顕定の同母兄憲俊の場合は違例で侍従、左少将、左中将、右中将を経た後に忠実の知行国尾張の国守に起用され、続いて大宰府の大弐に補任され、その後短期間近江守を務めた。
(補足)『富山県史』史料編1・古代では2)3)のみ収録し、2)に基づき顕定を長承二年二月時点の越中守としている。『国司一覧』はなぜか3)のみで、2)には言及していない。この時期の越中守が藤原顕長であるとの理解であろうが、言及した方がよい。

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