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2021年2月 9日 (火)

牛原庄と越前守1

 院政期の越前守については佐藤圭氏「平安末期の越前守について」(福井県立博物館紀要5号、1993)がある。全体を四期に分けることで平板な記述にならないようにしているが、それを可能としたのは越前国が一一世紀世紀末以降、院近臣の指定席となり、その動静が中央の貴族の日記に記されるとともに、牛原庄関係史料が醍醐寺雑事記に収録され残ったことである。佐藤氏には「鎌倉時代の越前守について」(立命館文学624、2012)もあり、両方の時期を論じた希有な研究者であるが、越前を主なフィールドとするためであり、近年は戦国大名朝倉氏の祖となった孝景についての著書もある。なお、佐藤氏の論文を収録した紀要当該号が国会図書館にあれば、連携する公立図書館の端末で閲覧し、印刷も可能だが、何故か4号までしかなかった。また福井県では関係機関が連携して過去の論文の公開を行っているが、なぜか県立博物館の紀要は含まれていない。結果として、遠くはなれた福岡県の古書店から当該号を購入した。
 円光院領牛原庄は源高実が越前守であった時期に立券されたが、そのもととなったのは村上源氏右大臣顕房に寄せられていた二〇町の見作田でその周囲の荒野を取り込む形で応徳三年に白河の娘媞子内親王が立てた円光院領とされた。媞子内親王は同母弟堀河の准母として入内し、次いで中宮、さらには郁芳門院となった。母賢子は前述の源顕房の娘で、藤原師実の養女として白河に入内し中宮となったが、応徳元年(一〇八四)に二八才で死亡した。
 越前守高実は摂関家の家司を務める一方で賢子の中宮大進でもあった。牛原庄の立券は賢子没の二年後で、賢子の実父顕房、その家臣であった高実の協力があった。次いで越前守となった源清実は高実の弟で、道長の孫で冷泉天皇の中宮となった章子内親王に仕えて、その第には忠実が何度か移っているように摂関家との関係が中心であった。佐藤氏の指摘のように、国司の退任前と新国司の補任直後で庄園への対応が異なることは多いが、その根底には庄園を認めない在庁官人の意思があり、国司がそれをコントロールできるか否かで、対応が変わった。一旦は庄園として認めた国司の在任中にも庄園への介入は繰り返されている。清実は寛治二年に庄園を削減したが、四年には元に戻された。
 二代一六年続いた摂関家関係者に代わって、嘉保二年正月には院分として藤原家保が越前守に補任された。院分国というよりも、院分として近臣顕季の子家保が一〇代後半で国司となったが、実務は父顕季とその関係者が行っていた可能性が高い。家保在任中にも寛治二年同様の対応がとられたが、白河院庁へ訴えたことで、四年の状態に戻された。家保補任の五ヵ月前には白河が寵愛した郁芳門院が二一才で死亡している。歎き悲しんだ白河院は出家し、女院の御所跡に六条持仏堂を建立して娘の菩提を弔った。

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