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2021年2月

2021年2月25日 (木)

越中守顕定をめぐって2

 顕定が越中守であったことは1)2)3)から確実であるが、一方で問題となるのが4)の顕俊である。顕俊の史料はこれのみであり、これが「顕定」の誤りである可能性もある。顕定の前任者はこれも異母兄弟俊親であり、俊親から顕定に交替し、顕定が一期四年つとめた後に、徳大寺公能に交替した可能性もある。
 彼らの父雅俊は村上源氏顕房流で白河院政期以降は兄俊房流に替わって中心となる。ただし公卿になるのは、藤原師実の養女となって白河天皇に入内した賢子の同母弟雅実の子孫である。同母妹は藤原忠実の正室として高陽院泰子と忠通を生んだ関係で、この一族は摂関家との関係を有する人物が多い。
 話を顕俊に戻すと、康和五年末には父雅俊の知行国である武蔵の国守となった。次いで弟俊親が嘉承二年初めに雅俊の知行国若狭の国守となった。俊親は七年後に越中守に遷任し、二期八年在任した。その跡に源顕定が補任されたと思われる。顕俊は武蔵守退任の一一年後に河内守に補任された。在任期間は不明だが、今回も一定期間を置いて、短期間陸奥守を務めた後に、鳥羽院の要望を握り潰した高階敦政が三年で辞任した跡の上野守に遷任している。
 3)にみえた顕定の同母兄憲俊の場合は違例で侍従、左少将、左中将、右中将を経た後に忠実の知行国尾張の国守に起用され、続いて大宰府の大弐に補任され、その後短期間近江守を務めた。
(補足)『富山県史』史料編1・古代では2)3)のみ収録し、2)に基づき顕定を長承二年二月時点の越中守としている。『国司一覧』はなぜか3)のみで、2)には言及していない。この時期の越中守が藤原顕長であるとの理解であろうが、言及した方がよい。

越中守顕定をめぐって1

 越中守顕定の関係史料は以下の通り。
1)鳥羽天皇第二皇子の誕生に際して保安五年(1124)三月一四日に御産定が作成されているが、そこでは若狭守藤原隆頼とともに各女房衝重卅前を負担することとなった(『御産部類記』)。
2)長承二年(1133)二月九日に春日祭使藤原頼長が出発したが、内殿上人一九名、院殿上人一二名が御共人としてみえる(『中右記』)。後者の中に越中守顕定がみえる。
3)同年七月一六日に権右中弁の太郎が加冠中御門宗忠、理髪源少将憲俊で元服をしたが、その際の指燭役を「其弟越中前司顕定」が行った。
これにより源姓であったことがわかるが、憲俊と弟顕定の父は源雅俊、母は源国明の娘であった。
 1)と2)によれば顕定は二期八年を超えて越中守を務め、3)の時点までに退任したことになるが、これと矛盾する史料がいくつもある。
4)天治二年一一月の五節の負担者として「越中顕俊」がみえる(『中右記目録』)。
5)大治元年二月二四日には德大寺実能の子公能が越中守となった(公卿補任)。
6)大治四年一二月二九日には知行国主実能と藤原顕頼の間で相博が行われ、紀伊国から顕頼の異母弟顕長が遷任して来た(『中右記』)。
  顕定は保延二年一二月一三日(『台記』)まで一貫して鳥羽院殿上人としてみえ、康治元年一二月一二日(『本朝世紀』)には「左馬権頭源顕定」とみえるが。左馬権頭補任時期は不明である。ただし、2)の時点ですでに「越中前司」であったことは確実で、残された問題は4)との関係である。源顕俊もまた雅俊の子であるが、その任官歴から顕広の年の離れた異母兄と思われる。1)の時点から間もなく顕定から異母兄顕俊に交替したとの解釈は加能だが、五味文彦氏作成の表では顕定は越中守のリストになく、顕俊が保安三年に河内守から遷任したことになっている。となると1)の顕定は「顕俊」の誤りとなるが、氏の表は三五年ほど前に作成されたもので、『仙洞御移徙部類記』(後に書陵部編の活字本が出版)の収録史料はほぼリストアップされているが、『御産部類記』の収録史料はほとんどリストに入っていない。1)の史料は五味氏の表でも『国司一覧』(ただし3には言及)でも未確認のものであった。

 

2021年2月18日 (木)

加賀守藤原済綱2

 話を済綱に戻すと、済綱の父師綱は待賢門院・崇徳院流の核となる藤原俊忠の娘を妻としている。済綱の母は不明だが、その姉妹には藤原朝方との間に朝定・朝経兄弟を産んだ女性や波多野遠義との間に義通を産んだ女性がいる。済綱の子済基は知行国主花山院氏のもとで伯耆守・能登守となる一方、源義仲がクーデタを起こした際には義仲の知行国丹波守に起用されたこともあった。済綱の娘は花山院兼雅と平清盛の娘との間に生まれた五辻家経の妻となっており、これが伯耆・能登守起用の背景であった。済綱は治承三年一一月の平氏のクーデター時には解官された平信業に代わって大膳大夫に補任されているが、これも同様の背景であろう。また『明月記』寛喜元年四月二七日条には、病気で床に伏せっていた定家のもとを訪ねてきた大膳大夫時綱と話したことについて、時綱の祖父済綱が「先人之出」であるという旧好を忘れずに来たことで互いに忘れないことを確認したと記している。これによれば、済綱の母もまた俊忠の娘で、定家の父俊成の姉妹であったことになる。
 済綱の父師綱の母は源師忠の娘である。師忠の娘には待賢門院の近臣であった源師時の妻となった女性もいた。持明院通基の妻で通重・基家を産んだ上西門院乳母一条は師忠の嫡子師隆の娘である。師隆の子師経と熱田大宮司季範の娘との間に生まれた娘が崇德天皇の二男覚恵(元性)を産み、その同母兄弟が知行国主一条能保(通重の嫡子)のもとで讃岐守に起用された隆保(その妻は定家の異母姉)であったことはすでに述べたとおり。
 以上の点から、藤原済綱が統子内親王の知行国加賀の国守であったとする五味氏の理解には十分な根拠がある。

 

加賀守藤原済綱1

 仁安元年八月二七日の除目で藤原基宗が七歳で上西門院分加賀の国守に補任されている。公卿補任には済綱を停めて補任したことが記され、『山槐記除目部類』同日条には「国次第有不審、仍如申文書次第持之、見之所書也」との尻付がある。これについて五味文彦氏は応保元年一〇月一九日に上西門院分国が能登国から加賀国に移り、済綱が国守に補任されていたのを、持明院基家と上西門院女房との間の子である基宗に交替させたと解釈された。従うべき見解であるが、なお関係史料確認したい。
 通説では上西門院分国とされるのは仁安元年八月二七日の加賀国以降とされている。五味文彦氏は持明院通基の知行国であった能登国(国守は子基家)が、久安四年一〇月一〇日に通基が死亡したことで待賢門院の娘統子内親王の知行国になったとされる。本ブロクでは、基家の前任の嫡兄通重が補任された保延六年四月七日以降、前斎院統子内親王の知行国で、その実質的支配にあたったのが通基であると述べてきた。通重と基家の母は源師隆の娘上西門院一条である。通基には西園寺公通(通季長子)の妻、藤原実綱(三条公教長子)の妻、藤原信隆(信輔長子)の妻となった娘があるが、その夫の年齢を勘案すると、いずれも通重・基家兄弟の同母姉であろう。
 能登国は大治元年に白河院近臣藤原敦兼の知行国となり、その子季兼・季行兄弟が一四年間に亘って国守を務めていた。このうち季行は後に美福門院との関係を深め高松院乳母夫となるが、本来は待賢門院、崇德天皇との関係が深かった。通重が能登守であった時期に摂関家領若山庄など大規模な庄園が次々に立券されたが、通基の父で持明院家の祖となった基頼も永久二年から元永二年にかけて能登守であった。
 久安四年正月に通重は父通基が保延六年四月まで国守であった丹波国に遷任し、弟基家が能登守となった。前任者の藤原公信は閑院流公実の同母弟保実の孫でやはり待賢門院との関係が深く、過去にも通基の後任として武蔵守に補任され、次いで藤原信輔と相博した若狭守をへて能登守となっていた。信輔も公実娘を母とし、通基の娘を妻とするなど待賢門院との関係が深かった。公信の子実清は崇徳院の申次をつとめ、保元の乱では崇徳院方となった。

 

2021年2月15日 (月)

藤原長実の知行国から2

 その後、伯耆国は藤原顕頼の知行国、丹波国は待賢門院庁の中心である持明院通基が国守となった。尾張は顕盛が死亡したことで摂関家家司源師盛が国司となり、次いでやはり家司である源成雅、源憲俊が続いた。残る備後は長親に代わって顕盛の子俊盛が国守となったが、半年後の保延二年五月一〇日には丹後守に遷任した。俊盛はその二年前の長承三年正月五日に一五歳で叙爵したが、恂子(後の統子)内親王御給であり、待賢門院との関係が深かった。それが二一日後の父顕盛の死により、前途は不透明となったが、鳥羽院は得子とその子の役人に意図的に待賢門院関係者を起用して取り込んだ。保延二年一一月四日には得子の乳母夫藤原親忠を安房守とし、この二ヶ国が得子の知行国(後の女院分国)となり、御所、持仏堂の造営を行い、次いで得子が産んだ體仁が近衛天皇として即位すると、皇后宮権大進に起用した藤原惟方(顕頼の嫡子光頼の一才違いの同母弟)が国司となった越前国にも造営を担わせ、天養元年一二月には惟方との相博により俊盛を越前守に遷任させ、女院が死亡する永暦元年末まで知行国として確保した。乳母夫親忠は安房守に続いて筑前守、摂津守、若狭守を歴任して引退し娘の子藤原隆信が越前守から遷任して後継した。親忠の子親弘は上野介、相模守を歴任したが、女院の分国であったかどうかは検討の余地がある。
 その後、俊盛の弟信盛が隠岐守、次いで親弘の後任として上野介に補任されたが、在任一年で死亡した。女院分国が増加する中、得子の兄異母兄長輔の庶子実清が仁平元年に一三歳で叙爵し、二年後の仁平三年には越前守に起用され、丹波守に遷任した。次いでその弟で十代前半と思われる長明が叙爵と同事に周防守に起用され、その兄で中央のポストを歴任してしていた隆輔がその後任となった。美福門院在世中の知行国の国司の補任状況は以上の通りである。長実の知行国四ヶ国を継承する形で美福門院の知行国(分国)が形成されたとする五味氏の解釈には検討の余地があり、女院分国の確定にも課題が残っている。俊盛のように、女院別当から娘八条院別当へ移行したが、その才能を見込まれて後白河院の近臣に組み込まれた人物もいた。また八条院の妹高松院に仕えた人々もいた。

藤原長実の知行国から1

 この問題については五味文彦氏が美福門院知行国との関係で論じられ、それが通説となっているが、詳細を検討すると以下のように疑問が生じてくるので、確認してみたい。
 五味氏が関係史料としてあげられたのは、1)大治五年九月日大山庄田堵等解と2)天承元年一〇月二九日丹波国大山庄下司・住人等解文に対する外題安堵に付せられた花押がいずれも長実のものであること、3)『中右記』長承元年一一月二三日条に「藤中納言長実子息等、件一門課四ヶ国、尾張・丹波・伯耆・備後」とあることである。この年の五節舞姫の雑事が諸国に課された中で、尾張(二男顕盛)、丹波(娘聟公通)、伯耆(子時通、宗通養子)、備後(子長親)が長実の関係者=一門が国司であった。
 尾張守は保安四年中に院近臣藤原敦兼から長実の子長親に交替し、次いで嫡子(同母兄顕経は早世ヵ)顕盛が在任していた。丹波守は中宮璋子の同母兄通季の嫡子公通がつとめていたが、通季は大治三年六月に死亡している。公通の地位に変更はなかったが、前述のように、長実が外題安堵を行っていた。長実が公通を聟としたのは1)の安堵の二ヵ月後の一二月二二日で、通季の死亡の二年半後であるが、前述のように、通季の妻(公通の母は藤原忠教の娘)の一人に長実の娘がいた。伯耆守は嫡子顕盛と相博する形で庶子長親が尾張守から遷任し、次いで長親は時通と相博して備後守に遷任した。四ヶ国の国守を関係者が占めていたが、それが即長実の知行国であるわけではない。
 五味氏も利用された史料に「寺門高僧記」があり、そこでは、藤原通季が加賀国の知行国主を辞して、重ねて備後国を賜って時通を備後守としたとする。確認すると、通季は同母弟実能と異母弟季成を国守として二期八年加賀国を知行国としたが、大治二年正月一九日には丹波国を知行国として嫡子公通を丹波守にした。園城寺再建が完了しなかったので、丹波国に加えて備後国を知行国として与えられ、妻の弟時通を国守とした。ところが半年もたたないうちに通季が死亡したため、その知行国の支配は妻の父長実が行い、園城寺再建を担当した。長実は大治五年に造営料所として伯耆国を与えられ、備後守時通を遷任させた。
 以上により、園城寺造営料所として加賀国が通季に与えられたが、完了しなかったので丹波国に変更した上で、備後国を加え、さらに通季の死後、長実がその再建を担当し、備後国に替えて伯耆国を与えられ、園城寺の再建を行い、長承三年八月二七日には金堂の供養が行われた。ただし、講堂と塔は造営されず、さらに保延二年には延暦寺によって金堂が焼かれてしまった。長実の知行国といっても園城寺造営料所とそれ以外は区別が必要である。後者は国を替えて継承される可能性があったが、前者は造営が終了すれば消滅するものである。長承元年一一月の四ヶ国のうち、丹波と伯耆が造営料所であり、尾張と備後が後者であった。ただし、尾張は嫡子顕盛が独立した国守である可能性が高い。すると、長実が死亡した時点での知行国は備後のみである。それゆえに備後国が最初に美福門院(当時は女御得子)の分国となった。

 

2021年2月 9日 (火)

牛原庄と越前守6

 権大夫成通は白河院寵臣宗通の四男で、大治四年正月の除目で白河院が鳥羽院の了解を得ないまま成通を従三位に叙そうとしたことに対して、待賢門院璋子が苦言を呈して実現しなかったという人物である。永久五年一一月二六日に璋子が女御となった際には、侍所別当に補任され、保延元年五月日待賢門院庁下文では別当の七番目に署判を加えていた。亮忠隆はその妻が崇德天皇乳母であり、大進憲方は女院御願寺法金剛院の造営にあたり、女院の娘統子内親王にも仕えていた。権大進惟方は顕隆の孫(顕頼子)で一六才であったが、もう一人の顕遠は顕隆の同母弟長隆の子である。生まれた翌年に父が死亡したため、伯父顕隆の庇護を受けたことはその名顕遠からわかるが、叙爵したのは二三才とやや遅かった。その後、父が家司であった忠実の娘泰子の皇后宮少進から大進へ進む一方で摂津守に補任されたが、保延五年七月二八日に泰子が院号宣下を受けたため権大進を辞し、二年の空白を経て得子の権大進に起用された。こちらは三二才であり、その実務能力を期待されたのだろう。
 話を戻すと、惟方が越前守であった時期の親忠からの申し入れはどのような背景からなされたものであろう。佐藤氏は越前の国務を奉行していたと推定しているが、それでは久安二年と同じである。久安二年のように目代に伝えていれば正しいが、永治二年の場合は目代ではなく、鳥羽院並びに国守惟方に対しての書状と考えられる。親忠は得子の御所と御堂建立の責任者であり、それに関しては越前・丹後国司を指揮できたが、両国の国務全般を奉行していたわけではない。ただし、惟方は皇后宮得子の権大進であった。これをみた牛原庄住人側は有効な訴え先として得子(鳥羽院もか)を選んだのであろう。当座の対応として申状に対する惟方の外題安堵という方法をとった上で、七ヵ月後の康治元年一〇月には国司庁宣と鳥羽院宣が出されているが、久安二年は一一月に院宣とともに目代宛の親忠書状で解決しており、親忠書状が国司庁宣の代わりを果たしている。越前国は五味文彦氏の説くように惟方の父顕頼の知行国であったと考えられる。

 

牛原庄と越前守5

 得子が鳥羽院の寵愛を受けるのは長承三年頃からだとされるが、特別な扱いを受けるのは保延元年末に長子叡子内親王が誕生してからであろう。翌二年四月一九日には従三位に叙せられており、この時点から関係する職員が配されたと思われるが、記録を欠いており不明である。院号宣下は久安五年八月三日であるが、保延二年正月二二日には、得子の異母兄顕盛の子俊盛が備後守に補任されている。前司はこれも異母兄弟長親であるが、五味文彦氏は知行国主長実が死亡した長承三年八月以降は、得子の知行国に準ずる形となったとされた。俊盛は五月一〇日には丹後守に遷任し、一一月四日には得子の乳母夫藤原親忠が安房守に補任され、得子の知行国が整備されていく。俊盛は天養元年一二月三〇日には惟方と相博する形で越前守に遷任している。この惟方と俊盛が国守であった時期に、牛原庄への国衙の介入停止について、「親忠」が申し入れを行っているが、いずれも乳母夫親忠と思われる。
 俊盛の時期は越前国は得子の分国(知行国)であるので理解可能である。すなわち、久安二年一一月六日に摂津守であった親忠が越前国目代に造新御願掃除人夫石料米等について牛原庄に課税しないよう伝え、同日付でその文書内容を伝えた鳥羽院宣が醍醐寺側に出されている。これに先立ち、康治二年四月に完成し移徒が行われた皇后御所の造営は丹後国と越前国が担ったが、その主担当者は当時安房守であった親忠であった。保延五年五月一八日に體仁親王が生まれると、八月一七日に崇德天皇の皇太子とされ、二七日には従三位であった得子が女御とされた。その時点で、永久五年一一月二六日の璋子の女御入内に準じて政所、侍所の別当や勾当が補任されたはずだが、史料は残っていない。
 次いで永治元年一二月七日の體仁が近衛天皇として即位すると、母得子は皇后宮となり、以下の役人が補任されたことが確認できる。
  大夫源雅定、権大夫藤原成通、亮藤原忠隆、大進藤原憲方、権大進藤原惟方・藤原顕遠
大夫雅定は村上源氏であるが得子の母の母体となった俊房流ではなく、永久の変により村上源氏の主流となった俊房の弟顕房流に属する。顕房の嫡子であった異母兄顕通が四〇才前半で死亡した時点でその子明雲(後の天台座主)、雅通はそれぞれ八才と五才であったため、雅定が雅通を養子として顕房流の中心となった。兄顕通が鳥羽院・待賢門両院の筆頭別当であった醍醐源氏能俊の娘を妻としたのに対して、雅定は得子の叔母(父長実妹)を室としていたが、両者の間に生まれた子は確認できない。

 

牛原庄と越前守4

 顕保が播磨守に補任された経緯も単純ではない。永治元年一一月二七日に播磨守忠隆と伊与守清隆の間で相博が行われたが、その直後の一二月二日に清隆は播磨守を辞して子定隆を備中守に申任じ、その跡に越前守から顕保が遷任している。『清原重憲記』天養元年四月一六日条には
賀茂祭の皇后宮得子の使として忠隆が参加していたが、それは前日に顕保の妻である妹が死亡したことを秘したままのものであったことが記されている。顕保が父家保も務めた播磨守に補任されるように忠隆、並びに清隆が協力したのだろう。越前国も大国ではあるが、当時の播磨国は伊予国、讃岐国と並んで院近臣の中心人物(藤原家保・家成父子、藤原基隆・忠隆父子、藤原清隆)の間で盥回しにされていた。いずれも白河院とその養女待賢門院と関係が深かった実力者であり、それゆえに鳥羽院は家成を自らの寵臣とし、忠隆を皇后宮(得子)亮、清隆を春宮(體仁)亮に起用している。家成も母は崇徳天皇乳母であり、白河院近臣であった高階宗章の娘(隆季等母)ならびに藤原経忠の娘(成親等母)を妻としている。佐藤氏のようにこの時期の顕保について得子の甥としての面を強調するのは的はずれである。
 一二月二日、越前守には藤原顕頼の子惟方が補任されたが、惟方は二七日には皇后宮(得子)権大進に補任されている。一才年上の同母兄光頼は一二月二日に備中守から右少弁に転じ、以降は中央の官職を歴任するが、弟惟方は越前、丹波、遠江守を歴任する一方で、皇后宮(得子)権大進を務めていた。そして院号宣下により権大進を辞すと、勘解由次官に補任され、以降は中央の官職を歴任する。これは顕隆の嫡子顕頼と同母弟顕能の関係と同じである。顕頼も白河院政下では待賢門院(中宮璋子)との関係が中心であったが、父が死亡し鳥羽院政下となると鳥羽院との関係が中心となり、弟顕能が受領を歴任しつつ、女院との関係の中心となっている。
 以上、ながながと顕保について述べたのは、顕保を単に美福門院得子の甥という側面からみる佐藤氏の見方は不十分ということを明らかにするためである。鳥羽院は待賢門院とその縁者である閑院流との関係の再現をさけるため、得子の父方の縁者を排除し、唯一の例外が自らが寵愛した家成である。母方は村上源氏俊房流であるが、こちらも皇后宮と美福門院庁の関係者にはみえない。

 

牛原庄と越前守3

 顕保は家保の子で、鳥羽院寵臣家成の同母(崇德天皇乳母)兄で、鳥羽院の寵愛を受け二人の姉に続いて保延五年には體仁親王を産んだ得子の従兄弟である。佐伯智広氏は白河院が崇徳天皇側近の核として考えていた家成を鳥羽院が奪ってみずからの側近したとするが、この評価は妥当であろうか。家成はすでに白河院在世中の大治二年正月の除目で新院(鳥羽院)分として加賀守に補任されている。弟が同母兄を出世で上回るのは顕隆と兄為隆の例にみられるように、珍しいことではない。ただ、「家保辞宰相并修理大夫、以修理大夫譲長男顕保之間、三男家成朝臣申破之間、彼家中喧嘩無極云々」(中右記保延元年五月五日条)とあるのは異常事態である。家保は出世で遅れをとった顕保が公卿になれるように、修理大夫を譲ろうと手続きをとったが、鳥羽院寵臣家成がこれに反対して人事を潰してしまったのである。
 顕保と家成の間に異母兄弟(二男)家長がおり、家成と遜色のないほど鳥羽院庁下文の署判者としてみえるが、前述の家成の命令で陵辱を受けた元上野介高階敦政法師が仁平三年一一月に近江国で投身自殺をした記事につづいて、家成と異母兄家長の関係が悪い(不穆)ためだと記されている。家成が仲の悪い異母兄家長と親しい敦政を過去の事件(藤原顕盛と結んで鳥羽院の要望を握り潰した)にかこつけて死に追いやったのであろう。
 話を戻すと、家成が顕保の人事を潰した保延一年五月の待賢門院庁下文の署判者では家保はみえず、家成が別当の九番目(ただし、「左京大夫兼左馬頭播磨守」を誤って「左京大夫兼右馬頭摂津守」と記している)、土佐守顕保は一六番目にみえる。次いで翌二年二月一一日鳥羽院庁下文では「修理大夫兼近江権守」家保が七番目、家成が九番目、顕保が一六番目に署判している。家保が死亡するのは八月一四日であある。顕保は白河院没後の直後に新たに補任された待賢門院別当の中にみえ、保延三年二月には長承三年三月に鳥羽院に入内した忠実娘泰子の皇后宮亮となっている。顕保が越前守に補任されたのは、土佐守二期八年を三ヵ月超えて務めた後の保延六年四月七日であった。泰子が高陽院となって保延五年七月二八日に皇后宮亮を辞してのちは兼職はなく、それは播磨守在任中に死亡するまで変わらなかった。
 顕保は在任一年八ヵ月で播磨守に遷任した。一一世紀末の藤原顕季以降、播磨守は院近臣の指定席であったが、遷任一年後の康治元年一二月一三日鳥羽院庁下文の署判順位は六番目の権中納言家成に対して播磨守顕保は二七番目でしかなかった。受領の中でも一〇番目で、さらに一年九ヵ月後の天養元年九月二九日鳥羽院牒でようやく受領では尾張守忠盛に次ぐ二番目、全体では九番目の家成に対して一七番目であった。


 

牛原庄と越前守2

 家保と相博して康和四年八月に丹後守から遷任して来て、長治元年末まで越前守であった高階為家もまた白河院近臣であり、その在任中に牛原庄に関する問題が生じていない。為家と相博して備中守から遷任してきた藤原仲実は摂関家家司を務める一方で、堀河天皇中宮篤子内親王(後三条天皇娘)に中宮権大進、亮として仕えていた。その二期八年が終了すると、家保の同母兄で白河院近臣である長実の子顕盛が越前守となった。顕盛には同母兄顕経がおり備前守となっていたが、在任途中で死亡したと思われる。そのため二男顕盛が嫡子として越前守となった。顕盛は白河院寵臣で、孫鳥羽院をないがしろにする行為があったため、白河院没後は鳥羽院に冷遇され公卿になることなく尾張守在任中に死亡している。死亡した顕経の後任として備前守に補任されたのは、六条持仏堂への所領寄進により、白河院に接近したことで知られる平正盛である。
 顕盛の在任が二期八年目前となった保安元年一一月に、平忠盛が顕盛と相博し伯耆守から越前守に遷任してきた。忠盛は父正盛と同様白河院近臣であり、父と郁芳門院との関係からしてその在任七年余に牛原庄への圧迫がなかったことは理解ができる。大治二年一二月には備前守藤原顕能が忠盛と相博して越前守に補任された。顕能は白河院近臣顕隆の子で、嫡子顕頼の同母弟であった。この顕能在任中に牛原庄への干渉が復活した。その原因は大治四年七月の白河院の急死であろう。干渉せんとする在庁官人の勢いがこれを阻止する顕能の意思の強さを上回ったのである。顕能の代には国司の任期中一度の引出物の課税が繰り返されるという問題も発生している。円光院からの訴えにより問題は解決したが、干渉と引出物の問題は顕能後任の高階盛章の補任直後も同様であった。そこで円光院では国司免判のみならず、官宣旨の発給を求め、長承元年九月二三日に獲得した。併せて堺を接する参議藤原成通領による押領を訴え、翌長承二年六月一四日官宣旨を獲得して、寛治四年の四至牓示の状況を再度認められた。とはいえ、保延四年一一月二八日国司庁宣と翌五年二月一九日庁宣が出されているように、在庁官人による干渉を完全に防ぐには到っていない。
 保延六年四月七日に高階盛章と相博して土佐守藤原顕保が越前守に遷任してくると、早速問題が発生し、引出物賦課を停止することを命じた鳥羽院宣が出されている。佐藤氏は家保から盛章までを第二期とし、白河・鳥羽院近臣の間で越前守が盥回しにされていることを特長とした。これに対して、顕保以降を三期としては美福門院の一族が国守となったとする。これに対して五味文彦氏の研究では、顕保の二代後の俊盛以降、美福門院の没まで越前国は女院分国であることが明らかにされた。

 

牛原庄と越前守1

 院政期の越前守については佐藤圭氏「平安末期の越前守について」(福井県立博物館紀要5号、1993)がある。全体を四期に分けることで平板な記述にならないようにしているが、それを可能としたのは越前国が一一世紀世紀末以降、院近臣の指定席となり、その動静が中央の貴族の日記に記されるとともに、牛原庄関係史料が醍醐寺雑事記に収録され残ったことである。佐藤氏には「鎌倉時代の越前守について」(立命館文学624、2012)もあり、両方の時期を論じた希有な研究者であるが、越前を主なフィールドとするためであり、近年は戦国大名朝倉氏の祖となった孝景についての著書もある。なお、佐藤氏の論文を収録した紀要当該号が国会図書館にあれば、連携する公立図書館の端末で閲覧し、印刷も可能だが、何故か4号までしかなかった。また福井県では関係機関が連携して過去の論文の公開を行っているが、なぜか県立博物館の紀要は含まれていない。結果として、遠くはなれた福岡県の古書店から当該号を購入した。
 円光院領牛原庄は源高実が越前守であった時期に立券されたが、そのもととなったのは村上源氏右大臣顕房に寄せられていた二〇町の見作田でその周囲の荒野を取り込む形で応徳三年に白河の娘媞子内親王が立てた円光院領とされた。媞子内親王は同母弟堀河の准母として入内し、次いで中宮、さらには郁芳門院となった。母賢子は前述の源顕房の娘で、藤原師実の養女として白河に入内し中宮となったが、応徳元年(一〇八四)に二八才で死亡した。
 越前守高実は摂関家の家司を務める一方で賢子の中宮大進でもあった。牛原庄の立券は賢子没の二年後で、賢子の実父顕房、その家臣であった高実の協力があった。次いで越前守となった源清実は高実の弟で、道長の孫で冷泉天皇の中宮となった章子内親王に仕えて、その第には忠実が何度か移っているように摂関家との関係が中心であった。佐藤氏の指摘のように、国司の退任前と新国司の補任直後で庄園への対応が異なることは多いが、その根底には庄園を認めない在庁官人の意思があり、国司がそれをコントロールできるか否かで、対応が変わった。一旦は庄園として認めた国司の在任中にも庄園への介入は繰り返されている。清実は寛治二年に庄園を削減したが、四年には元に戻された。
 二代一六年続いた摂関家関係者に代わって、嘉保二年正月には院分として藤原家保が越前守に補任された。院分国というよりも、院分として近臣顕季の子家保が一〇代後半で国司となったが、実務は父顕季とその関係者が行っていた可能性が高い。家保在任中にも寛治二年同様の対応がとられたが、白河院庁へ訴えたことで、四年の状態に戻された。家保補任の五ヵ月前には白河が寵愛した郁芳門院が二一才で死亡している。歎き悲しんだ白河院は出家し、女院の御所跡に六条持仏堂を建立して娘の菩提を弔った。

2021年2月 3日 (水)

紀伊守藤原親能2

 ところが親能は在任期間が二年で保延六年四月三日には源雅重が紀伊守に補任された。七七才であった父行宗が大蔵卿を辞して子雅重を申任じたのである。この五ヵ月後には行宗の養女兵衛佐局が崇德天皇との間に重仁親王を産んでいる。今と異なり四月時点では子の性別は不明であるが、懐妊により親能から雅重への交替が実現した。崇徳天皇の外戚徳大寺実能が譲った形である。五味文彦氏が作成された表では、親能は紀伊守から若狭守に遷任したと解釈されているが、そうではなく、頼佐が若狭守であった。頼佐の前任の若狭守は藤原公信で、その祖父保実は閑院流公実(待賢門院、実能の父)の同母弟であった。五味氏が丹波守に遷任した公信の跡に親能が起用されたと考えられたのには一理あるが、紀伊守退任後散位となっていた親能が若狭守に補任されれ、その直後に辞退したのである。
 公信の後任頼佐は藤原顕隆の孫である。顕頼の同母弟であった父顕能が早世したため、幼少であった子の頼佐、重方、顕方は顕頼の庇護を受けた。重方は顕頼の娘を妻とし、顕方は顕頼の年の離れた異母弟顕長の猶子となっている。そして実能の室となり嫡子公能や頼長の室幸子を生んだ女性もまた顕隆の娘であった。その母は不明であるが、顕頼と顕能の間に生まれた同母姉妹である可能性が大きい。
 ということで、頼佐もまた実能と関わりを持っており、それに替わって紀伊守を退任して散位となっていた親能が若狭守に起用されたが、何らかの理由で辞退せざるを得ず、若狭守を退任して散位となったばかりの頼佐(新院=崇徳院判官代であった)が阿波守に補任されたのである。親能が死亡したわけではなく、仁平元年八月一〇日に、一一月に派遣される春日祭使隆長(頼長子)の供奉人が定められているが、その中に新院殿上人として雅重とともに親能がみえる。久寿二年六月八日には頼長北政所(実能娘幸子)の葬礼が行われているが、竈所役人として親能と頼佐がみえている。重方の子が鎌倉初期に隠岐国で関東御領の地頭となるとともに、所領押領を訴えられた重頼で、頼佐の子惟頼の関与が指摘されていた。
 高階泰重の生年は不明だが、大治五年(一一三〇)には藤原宗兼の娘(池禅尼、宗長と同様、日野有信の娘が母である可能性が高い)との間に泰経が生まれており、若狭守遷任時には三〇才前後であったと考えられる。

紀伊守藤原親能1

 康治二年一月の除目で高階泰重が阿波守から若狭守に遷任している(本朝世紀)が、二七日条の泰重の尻付には応天門を修造した功であることと、藤原親能が辞退した替であることが記されている。同日条に阿波守に補任された藤原頼佐の尻付には「散位、新(崇徳)院判官代、泰重改若狭替」と記されている。ところが三〇日条には頼佐と泰重が相博したかのような記述があり、泰重には「元阿波」、頼佐には「元若狭」との尻付がみられる。泰重が阿波守から若狭守に遷任したことには問題がないが、頼佐は二七日条の「散位」と三〇日条の「元若狭」とどのように解釈したらよいだろうか。
 二七日条には「散位、新院御時蔵人」であった藤原朝方が淡路守に補任されているが、公卿補任で朝方の経歴を確認すると、七才であった永治元年一一月二七日に鳥羽院判官代から崇德天皇蔵人に補任され、一二月二日には高陽院臨時御給で叙爵しているが、七日には崇德天皇が退位したため散位となった。それが康治二年正月に信濃守に遷任した藤原賢行の後任として淡路守に補任されたのである。次いで四年任期満了直前の久安二年一二月二九日に重任し、久安四年正月五日には従五位上に叙されているが、これも「高陽院当年御給」であった。朝方の父朝隆は白河院近臣為房と藤原忠通の乳母讃岐宣旨との間に生まれており、摂関家との関係が深く、このことが忠通同母姉高陽院御給による叙位につながった。一方、讃岐宣旨の兄弟には待賢門院の関係者が多く、その一人法成寺上座執行増仁は崇徳院の御願寺成勝寺に三箇所を寄進している。朝隆自身も同母弟親隆とともに待賢門院判官代であった経歴を持っている。
 以上の点を踏まえると、当初二七日の除目では藤原親能が若狭守に補任されたが、何らかの理由で辞退したため、急遽、重任を認められていた泰重が若狭守に遷任し、若狭守を退任して散位となった頼佐が阿波守に補任されたと考えられる。頼佐の場合は一旦若狭守から散位となっていたのである。棚からぼたもちであるが、辞退した親能と頼佐の間には関係がないのだろうか。
 親能は系図には記載がないが、その名前と経歴からして徳大寺実能の関係者であろう。保延四年正月の除目で紀伊守に補任されているが、その前任者公重は大治五年正月に鳥羽院分として補任され、二期八年を務めている。待賢門院の同母兄西園寺通季の子として生まれたが、父が死亡したため、父の同母弟(叔父)実能の養子となっていた。公重は鳥羽院分として受領となった最後の人物で、且つ白河の死により一院となった鳥羽院唯一の院分受領である。院分の実態は様々であろうが、一院枠で起用されたことと、養父実能が知行国主であったことは確実であろう。親能が紀伊守に補任された時点では一院分受領そのものがみられなくなるが、紀伊国は実能の知行国であった。『国司一覧』にあるように、元久二年五月二七日関東下知状には「保延之頃徳大寺左大臣家国務御時」と記されている。

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