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2021年1月17日 (日)

藤原顕隆の役割2

 大治四年一月一日に崇德天皇は元服し、九日には摂政忠通の娘聖子が入内し、一五日には女御となったが、その一五日に顕隆は五八才で急死した。同年七月には白河院も死亡することになる。
 元服した崇徳は一一歳であったが、これにより父である二七才の鳥羽上皇との関係は微妙となる。崇徳には曾祖父であるとともに母方の祖父とでもいうべき白河法皇がおり、白河が長命ならば、父鳥羽上皇が政治を主導する機会は短くなる。実際、顕隆没後の一月二四日の除目をめぐり、白河院と鳥羽院ならびに待賢門院との間で対立が生じている。その背景は、白河院が鳥羽と女院への事前確認なしに違例の人事を行ったことにあり、女院が白河院へ苦言を呈し、白河院が機嫌を損ねたことがあった。この点については角田文衛氏『待賢門院璋子の生涯』で述べられている。
 ただし、関係史料である『長秋記』に述べられていない点もある。それは白河院の近臣藤原顕盛(長実の子)と結んで、鳥羽上皇が仲介した国免庄の継続要求を握り潰した上野介高階敦政が交替させられていることである。敦政は大治元年二月二四日に補任されており、通常ならその任期は大治五年初めまでであったが、大治四年一月二四日の除目で源顕俊が上野介に補任されている(一月二三日に敦政の辞書が出され、上野介は闕とされた。また顕俊は陸奥守に補任されて間もなくであった)。
 顕盛と敦政に対する鳥羽上皇の怒りは尋常ではなく、白河院が没した翌大治五年に顕盛が父長実から譲られていた修理大夫の職を停任している。一旦は復帰を認めたが、同年一〇月の除目で藤原基隆を修理大夫に補任した。公卿目前の顕盛であったが、公卿になることなく没している。以前述べたように、仁平三年一一月に敦政法師が近江国の湖で投身自殺をしたのは、鳥羽院寵臣藤原家成が子隆季が長官である馬寮馬部の役人を派遣して敦政を陵辱したからであった。すでに二五年前後経過しているのに、執念深いと驚いたが、当然、握り潰された直後にも行動に出たはずである。顕盛の背後には祖父白河院がいるため無理だが、敦政の更迭なら可能であったことになる。ご意見番としての顕隆が死亡していたことも、それを可能としたのではないか。敦政の後任となった源顕俊は兄弟である顕親と同じく摂関家との関係が深く系図では4ヶ国の受領を歴任したことが記されているが、その娘は忠通との間に、後に二条天皇の中宮となる育子を産んでいる。
 上野国は天仁元年(一一〇八)の浅間山の大噴火で被害を受けた。その後、再開発が進む中、忠実が上野国内での大規模庄園の立券を図ったが、元永二年(一一一九)三月に白河院により禁止されていた。

 

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