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2021年1月17日 (日)

藤原顕隆の役割1

 保安三(一一二二)年一二月一七日、公卿の大規模な人事異動が行われ、「夜の関白」と言われた顕隆がその極官となる権中納言に補任された。父為房の姉妹に中宮璋子の母光子がいたことと、その政治的力量により昇進したものだった。同日に同母兄為隆は参議に補任されている。翌保安四年一月二八日に顕仁親王が即位(崇德天皇)することをにらんだ体制整備であった。
 一二月一九日に為隆、顕隆兄弟がそれぞれ慶賀の挨拶を行っている。為隆の前駈をつとめたのは異母弟国隆・朝隆と子である憲方・光房(同母)と憲光(異母)、並びに娘聟源師隆の六人であった。これに対して顕隆の前駈を行ったのは娘聟である藤原清隆(顕隆娘はその後同母弟朝隆に再嫁し、一一三五年に朝方を産んでいる)と藤原忠隆(顕仁親王乳母夫)、異母弟親隆(朝隆同母弟)、子である顕頼・顕能、顕頼の妻の父源雅職(東大寺別当となった顕頼子顕恵が一一一六年誕生)、娘聟俊忠の子忠成(母は藤原敦宗娘)、藤原家保の長子家長である。
 顕隆娘は当初藤原家政との間に雅教等を産んだ後に俊忠に再嫁し、豪子、俊子を産んでいる。年齢的には俊忠長子忠成よりやや下で、忠成の子昌雲は顕隆娘を継母と呼び、継母が顕隆から譲られた長門国向津奥庄を譲られていたことは前述の通りである。家長と顕隆の直接的関係は不明だが、雅教の子雅長が後に家長の娘を妻としている。
 顕隆の前駈を行ったのは本ブログで使用する「待賢門院・崇徳流」の関係者である。それ以外の関係者である平忠盛はその姉妹が清隆との間に隆盛を産み、忠盛の後室宗子(池禅尼)の母は、待賢門院・崇徳流の構成員である日野資光とその娘聟資憲と深い関係にあった。なお、顕隆は大治三年一一月一四日に崇徳の同母弟雅仁が親王宣下を受けた際にはその勅別当に補任され、翌一二月の待賢門院庁牒では源能俊、三条実行に次ぐ三番目に署判を加えている。四番目の署判者は女院の同母兄德大寺実能(兄通季は死亡)であった。

 

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