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2021年1月11日 (月)

源仲政をめぐって1

 「源頼政をめぐって」の記事で父仲政について以下の様に述べた。
仲政は堀河天皇蔵人(『中右記』嘉保二年六月二〇日条)、皇后宮大進(『殿暦』天仁元年五月一七日条)、下総守(『中右記』元永元年二月五日条)を歴任し、保安四年一一月一日には「前下野守源仲正随身」が源義親と称する者を捕らえている(『百錬抄』)。
 現在、五味文彦氏の研究成果に基づき院政期国司表を作成する中で、再検討する必要が出てきた。それは下総守と下野守を歴任したのではなく、一方のみではないかというものである。多くの史料には「仲正」とあり、下総国の時点では気付かず、下野国をみる中で仲政の事だとようやく気付いたところである。
 『大日本史料』第三編二五冊では追討後の源義親に関する情報として『中右記』元永元年二月五日条(下総守源仲正)と『百錬抄』保安四年一一月一日条(前下野守仲正)を並べて載せ、後者については「総ヵ」と注記して、下野守であったことに疑問を呈している。『国司一覧』も同様である。『源平盛衰記』では「仲政兵庫頭下総守」とあり。『尊卑分脈』には「下野守従四位下兵庫頭」とある。これに対して五味氏作成の表では「下総国」では中右記の仲正について「下野の誤か」とされ、百錬抄の記事を併せて仲政が元永元年までに下野守に補任されたとされている。五味氏は全国のデータに基づき、史料の空白を埋める作業をされているが、結果としては『国司一覧』と正反対の説を採用された。ということで情報を再度整理したい。
 国司には名前のみで在任時期が不明なケースも珍しくない。下野守といえば源頼朝の父義朝が補任され、その後の台頭につながったポストでもあったが、下総とともに関係史料は乏しく、長期間、国司の名前が不明なことも珍しくない。
 『中右記』には源仲正が前年から常陸国へ越境して常陸国住人を搦め取ったことが記されている。下総だけでなく下野も常陸と国境を接しており、可能だが、そうすると天永二年正月に下総守に補任された紀久実から大治二年正月補任の藤原茂明までの一六年間は見任する国司名を記した史料すらないことになる。下総守と下野守の両方を歴任した人物として藤原親通と源盛邦がいる。親通は師輔の子為光流伊信の子で、両国司の前に山城守を歴任し、その子親方と親盛も下総守に補任され、平氏政権との関係を強めた。盛邦は前述の和泉守源長季の曾孫で、系図には名前のみ記されている。父盛家は摂津守、兄弟盛定は関白忠通勾当をつとめるなど、摂関家とのつながりを持ちつつ受領となっている。

 

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