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2021年1月19日 (火)

徳大寺公能の母をめぐって

 待賢門院・崇徳流の核として藤原顕隆と藤原俊忠、ならびに日野氏をあげたが、当然の事として、待賢門院の兄弟もまた重要な役割を果たした。
 藤原公実の子の中では、年長の異母(基貞娘)兄実隆・実行を抑えて、一〇歳以上年少の西園寺通季が中心となっていたが、三九歳で死亡したため、その後継者の地位をめぐり、三条実行(一歳年長の実隆も通季没の前年に死亡)と徳大寺実能が微妙な関係となったが、一応一六歳年長の実行が女院庁別當の席次では上であった。保延六年に頼長が辞した左大将の地位をめぐり、実行と実能が補任を希望したが、年齢と計歴は一長一短で、両者の甥である崇徳天皇の選択は困難であった。そうした中、自らの外戚である閑院流への依存を是正するため、鳥羽院は源雅定を推薦し、最後は天皇のもとに押しかけて、この人事を押し通した。待賢門院が没した直後には、同母兄実能が法服を着用したのに対して、異母兄実行は着ておらず、鳥羽院から叱責されたことがあった。
 話を戻すと、同母長兄通季の妻について系図は藤原忠教の娘を記すのみである。『長秋記』から長実の娘が通季の室であったことはわかるが、それ以上は不明で、顕隆との関係は不明で、わずかに、藤原俊忠の子(忠成の同母弟)公長が通季の猶子となっていることがわかる。これに対して徳大寺実能は顕隆の娘との間に頼長の妻となった幸子と嫡子公能をなしている。系図ではこの顕隆娘の母は不明だが、『山槐記』保元三年八月一三日条に公能の母の死亡記事がみえ、翌一四日条には、放生会上卿として下向することになっていた右兵衛督光頼が、公能母の死により服假となったため、上卿が新(権)大納言藤原経宗に交替している。ここからわかることは、公能母が光頼の父顕頼の同母姉であることである。実能の娘幸子は顕頼の嫡子光頼より一二歳年長である。実能は早世した兄通季の子公重を養子とし、娘廊御方を妻としており、閑院流内の待賢門院・崇徳派の中心であった。
 なお白河院近臣であった藤原宗通の嫡子伊通もまた顕隆の娘を妻とし、伊実と呈子(後に忠通と美福門院の養女として近衛天皇に入内)が生まれている。両者の異母(藤原定実娘)兄為通は崇徳天皇に登用されており、権中納言昇進という人事上の不満から籠居し、一旦停任された父伊通が復任を認められ、権中納言に昇進できたのは、天皇から鳥羽上皇への働きかけがあったとされる(『今鏡』)。伊通の同母姉宗子が忠通との間に産んだのが崇徳天皇中宮聖子であった。

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