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2021年1月11日 (月)

源仲政をめぐって2

 天承元年(一一三一)一一月一七日に大殿忠実が関白忠通と中将頼長を伴って参院しているが、その際の前駈六人の中に下総守盛邦がみえる。盛邦に関する大半の史料は名前だけであるが、『本朝世紀』仁平三年一一月二一日条の死亡記事には「前下野守源盛邦卒」とあり、源姓だということがわかる。ところが、『国司一覧』と五味氏作成の表には下野守源盛邦は記されていない。「前下野守」が「前下総守」の誤りという意見もあろうが、『台記別記』仁平元年一一月一五日と『兵範記』仁平三年九月一八日条にも前下野守とみえている。問題は盛邦の下野守在任期間であるが、藤原親通と相博する形で保延元年に下野守となり、その後任が藤原資憲であったと思われる。
 『国司一覧』と五味氏の表には見えないが、この時期の下野守として藤原南家季綱の子で、常陸介知通の父である尹通がいる。『尊卑分脈』の尻付には「使策蔵左衛門佐中宮大進正五位下安芸、下野守、母若狭守通宗女、保安三四二卒、四十三」とある。尹通の安芸守在任は天永元年正月から元永元年正月までで、これに入れ替わるように、元永元年正月に嫡子尹経(知通の弟ヵ)を阿波守として知行国主となった。尹通については「藤原尹通について」述べたが、下野守関係史料は確認できなかったとした。尹通は保安元年正月に安芸国の解由状を提出し功過を受けている。『中右記』で記主宗忠が批判しているように、提出書類には不備があったが、白河院から不備を補うようとの命が内々に出され。公卿会議での功過が終了している。これにより、尹通は再度の受領補任が可能となった。一次史料上で確認できるものはないが、元永二年正月補任の清原広美の後任として下野守に補任されたが在任中に死亡した。そして尹通の後任として起用されたのが元下総守源仲政であった。結果として、清原広美、藤原尹通、源仲政の下野守在任期間は短かった。保安四年一一月一日以前の源仲政退任から藤原親通が補任される大治二年正月までの下野守は不明である。そして最初に述べたように、親通と相博する形で下総守源盛邦が下野守となり、その後任が藤原資憲であった。
 以上のように、藤原尹通(嫡子尹経を国守として阿波国知行国主となったが、在任中に死亡。尹経はその後石見守に遷任したが、在任一年で退任。おそらく死亡したと考えられる。その後任が人々に驚きをもって迎えられた卜部兼仲であった。阿波国は白河院分であり、石見国も同様であったと考えられるが、大治四年七月には白河院が没したこともあり、尹経から兼仲に交替した時点では待賢門院分国となった。)が下野守となった時期を明らかにし、源仲政(仲正)は下総守(介)を退任後、藤原尹通が死亡したため、その後任として短期間ではあるが下野守を務めたこと、さらには源盛雅も藤原親通と相博する形で、下総守(介)と下野守を歴任したことを明らかにした。
追記:一部の書き間違いを修正した。

 

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