koewokiku(HPへ)

« 和泉守源盛季とその一族 | トップページ | 源仲政をめぐって1 »

2021年1月 7日 (木)

常陸介藤原実宗

 嘉承二年(一一〇七)に常陸介(親王任国のため受領は介である)に補任された藤原実宗について、『大日本史料』にはその父である資宗の出家の記事で系図(北家実頼流)を載せている。資宗には「摂津守」と記され在任が確認でき、実宗には「常陸守」と記されているが、一方『茨城県史』には魚名流藤原定任の子実宗の系図を掲載している。こちらは常陸介とともに能登守、肥後守を歴任しているとあるが、一次史料では確認できるのは肥後である。ただし、父定任については『春記』長久元年(一〇四〇)四月一日条に前司とみえ肥後守在任が確認できる。系図では筑前・肥前・伊賀・大和守と記されているが、在任が確認できるのは伊賀、大和、肥後守である。ふたりとも時代的には矛盾がないようだが、いずれであろうか(前者の実宗は陸奥守在任中の康和五年一〇月四日に没している=中右記同日条。康和五年二月三〇日の除目について『殿暦』には高階能遠が陸奥守に補任されたと記すが、『本朝世紀』が記すように常陸介であった。この点と2ヵ月後に能遠が常陸介を辞退したことと関係があるかは不明である)。
 『今鏡』には著名な医師雅忠のもとを常陸介実宗が訪ねた際の様子が記されているが、いずれの実宗であるかの決め手を欠いている。『拾遺往生伝』には高階敦遠室が天永二年(一一一一)七月一日に死亡した際に、常陸介実宗の後房(妻ヵ)字肥後内侍が見た夢について記されている。両者とも『大日本史料』に収録されているが、『茨城県史』にはともになく、代わって『詞花和歌集』に収録された大皇太后宮肥後の歌と詞書が掲載されている。二人の肥後(女性)は同一人物であろう。となると、嘉承二年補任の常陸介実宗とは肥後守補任経験のある後者であることになる。
 詞書には常陸介実宗に対して大蔵省の使者が厳しく追及したため、実宗は大蔵卿であった大江匡房に訴え、課税対象を常陸から遠江にきりかえることに成功した。すると肥後から悦びの気持ちと感謝を表す歌が匡房に届き、匡房も「心さし君につくはのやまなれは、はまなのはしにわたすとおしれ」と返している。匡房が大蔵卿に補任されたのは天永二年七月二九日で、一一月五日には七一才で死亡しており、時期を絞り込む事ができる希有な例である(当初は肥後の歌のみから実宗が常陸から遠江へ変遷したと解釈したが、遠江守の在任期間に実宗が入る余地がないので疑問を述べていた。『大日本史料』の匡房の死亡記事に関連して匡房の返歌とともに掲載されており、解釈を修正した。)。
 現在も院政期受領表の加筆、補訂作業を続けており、これが今年最初の記事となった。

« 和泉守源盛季とその一族 | トップページ | 源仲政をめぐって1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 和泉守源盛季とその一族 | トップページ | 源仲政をめぐって1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ