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2021年1月

2021年1月24日 (日)

新たなPC

 久しぶりにヤフーオークションでPCを落札した。1台目はNEC製のデスクトップで、2019年前半に発売されたものである。CPUはcore i 3-8100で、HDDは1TBというものであった。メモリーが16Mと多く、HDDは手持ちのSDDに交換する予定であった。SDD内蔵ものよりHDD内蔵の方が値段は安い。CPUも可能ならcore i5に交換したいが、第8世代以降はCPUの性能がアップしている。本体のみで、キーボード、マウス、DVD、マニュアルはない。札幌市の業者から購入したが、状態は新品同様である。
 早速、ネットでこの機種の分解やHDD交換について検索するが、実例がみつからず、ケースの開け方すらわからなかった。なんとかNECのサイトにマニュアルがアップされていたが、製品添付は簡易版で、この詳細版を参照してようやく内部を確認できた。ただし、DELLの業者向けのサービスマニュアルほど詳しくはない。結果として1TBの3.5HDDが2台内蔵され、RAIDの設定となっていたようだ。その内の一台をSDDに交換した。当初パソコン上では2台ではなく1台のみ表示されていた。このあたりはRAIDが初体験なのでよくわからないが、SDDが0.48TBのサイズなので、HDDの利用サイズをそれ以下に縮小した上で、システムを複写した。無事に立ち上がったが、今度はSDDとHDDの2つが表示されていた。
 2台目はSurface Pro4で2015年の製品である。以前、HuaweiのノートPCを購入した際に検討したが、値段が高かった。今回は中古なので大変安く、且つ程度は良好である。会社のレンタル期間が終了したもので、盛岡市の業者から購入したが、あまり使われなかったようだ。12.3インチ、2736×1824はやや小さい。HuaweiのPCは13.9インチで3000×2000という解像度であった。これもタイプカバーやペンは付属しないので安かった。ジャストシステムから購入したあまり使用していなかった折りたたみ式のキーボードを接続したが、ロジクールのマウスを接続すると競合するようで動作が不安定になった。キーボードもロジクールのものに変更すると、問題がなくなった。PCで利用していたが、購入後一年をすぎた頃から接続が不安定になったため、使用していなかった。2台あって、うち一台にはキーボードスタンドがありキーボードのストロークもあるが、横置きが可能なのは10インチのタブレットまでである。もう一台はノートPC並にストロークが浅い。早速ネット接続のスピードを確認すると、aの利用で300程度で無線としては十分速い。
 メインではなく、主にPDFや画像ファイルの閲覧に使うが、高解像度なので、ワープロの横40字や縦52字の表示でも使える。この原稿は前者のモードで入力した。タイプカバーやペンは不要であるが、マウスの携帯は必要か。図書館ではHuaweiがメインで、サブとして使用する。Huawei用に10インチ2560×1600の外付け小型モニターもあるが、バッテリー内蔵ではなく、PCのバッテリーを消費するので、その出番は3画面で利用する時がメインであろうか。外付けの携帯バッテリーはあるが、配線が必要となる。今回の費用は送料込みで2台合計5万円である。後者のはオークションでは3000円引のクーポンが利用可能であった。使いこなせば安い買い物となる。

2021年1月19日 (火)

徳大寺公能の母をめぐって

 待賢門院・崇徳流の核として藤原顕隆と藤原俊忠、ならびに日野氏をあげたが、当然の事として、待賢門院の兄弟もまた重要な役割を果たした。
 藤原公実の子の中では、年長の異母(基貞娘)兄実隆・実行を抑えて、一〇歳以上年少の西園寺通季が中心となっていたが、三九歳で死亡したため、その後継者の地位をめぐり、三条実行(一歳年長の実隆も通季没の前年に死亡)と徳大寺実能が微妙な関係となったが、一応一六歳年長の実行が女院庁別當の席次では上であった。保延六年に頼長が辞した左大将の地位をめぐり、実行と実能が補任を希望したが、年齢と計歴は一長一短で、両者の甥である崇徳天皇の選択は困難であった。そうした中、自らの外戚である閑院流への依存を是正するため、鳥羽院は源雅定を推薦し、最後は天皇のもとに押しかけて、この人事を押し通した。待賢門院が没した直後には、同母兄実能が法服を着用したのに対して、異母兄実行は着ておらず、鳥羽院から叱責されたことがあった。
 話を戻すと、同母長兄通季の妻について系図は藤原忠教の娘を記すのみである。『長秋記』から長実の娘が通季の室であったことはわかるが、それ以上は不明で、顕隆との関係は不明で、わずかに、藤原俊忠の子(忠成の同母弟)公長が通季の猶子となっていることがわかる。これに対して徳大寺実能は顕隆の娘との間に頼長の妻となった幸子と嫡子公能をなしている。系図ではこの顕隆娘の母は不明だが、『山槐記』保元三年八月一三日条に公能の母の死亡記事がみえ、翌一四日条には、放生会上卿として下向することになっていた右兵衛督光頼が、公能母の死により服假となったため、上卿が新(権)大納言藤原経宗に交替している。ここからわかることは、公能母が光頼の父顕頼の同母姉であることである。実能の娘幸子は顕頼の嫡子光頼より一二歳年長である。実能は早世した兄通季の子公重を養子とし、娘廊御方を妻としており、閑院流内の待賢門院・崇徳派の中心であった。
 なお白河院近臣であった藤原宗通の嫡子伊通もまた顕隆の娘を妻とし、伊実と呈子(後に忠通と美福門院の養女として近衛天皇に入内)が生まれている。両者の異母(藤原定実娘)兄為通は崇徳天皇に登用されており、権中納言昇進という人事上の不満から籠居し、一旦停任された父伊通が復任を認められ、権中納言に昇進できたのは、天皇から鳥羽上皇への働きかけがあったとされる(『今鏡』)。伊通の同母姉宗子が忠通との間に産んだのが崇徳天皇中宮聖子であった。

2021年1月17日 (日)

藤原顕隆の役割2

 大治四年一月一日に崇德天皇は元服し、九日には摂政忠通の娘聖子が入内し、一五日には女御となったが、その一五日に顕隆は五八才で急死した。同年七月には白河院も死亡することになる。
 元服した崇徳は一一歳であったが、これにより父である二七才の鳥羽上皇との関係は微妙となる。崇徳には曾祖父であるとともに母方の祖父とでもいうべき白河法皇がおり、白河が長命ならば、父鳥羽上皇が政治を主導する機会は短くなる。実際、顕隆没後の一月二四日の除目をめぐり、白河院と鳥羽院ならびに待賢門院との間で対立が生じている。その背景は、白河院が鳥羽と女院への事前確認なしに違例の人事を行ったことにあり、女院が白河院へ苦言を呈し、白河院が機嫌を損ねたことがあった。この点については角田文衛氏『待賢門院璋子の生涯』で述べられている。
 ただし、関係史料である『長秋記』に述べられていない点もある。それは白河院の近臣藤原顕盛(長実の子)と結んで、鳥羽上皇が仲介した国免庄の継続要求を握り潰した上野介高階敦政が交替させられていることである。敦政は大治元年二月二四日に補任されており、通常ならその任期は大治五年初めまでであったが、大治四年一月二四日の除目で源顕俊が上野介に補任されている(一月二三日に敦政の辞書が出され、上野介は闕とされた。また顕俊は陸奥守に補任されて間もなくであった)。
 顕盛と敦政に対する鳥羽上皇の怒りは尋常ではなく、白河院が没した翌大治五年に顕盛が父長実から譲られていた修理大夫の職を停任している。一旦は復帰を認めたが、同年一〇月の除目で藤原基隆を修理大夫に補任した。公卿目前の顕盛であったが、公卿になることなく没している。以前述べたように、仁平三年一一月に敦政法師が近江国の湖で投身自殺をしたのは、鳥羽院寵臣藤原家成が子隆季が長官である馬寮馬部の役人を派遣して敦政を陵辱したからであった。すでに二五年前後経過しているのに、執念深いと驚いたが、当然、握り潰された直後にも行動に出たはずである。顕盛の背後には祖父白河院がいるため無理だが、敦政の更迭なら可能であったことになる。ご意見番としての顕隆が死亡していたことも、それを可能としたのではないか。敦政の後任となった源顕俊は兄弟である顕親と同じく摂関家との関係が深く系図では4ヶ国の受領を歴任したことが記されているが、その娘は忠通との間に、後に二条天皇の中宮となる育子を産んでいる。
 上野国は天仁元年(一一〇八)の浅間山の大噴火で被害を受けた。その後、再開発が進む中、忠実が上野国内での大規模庄園の立券を図ったが、元永二年(一一一九)三月に白河院により禁止されていた。

 

藤原顕隆の役割1

 保安三(一一二二)年一二月一七日、公卿の大規模な人事異動が行われ、「夜の関白」と言われた顕隆がその極官となる権中納言に補任された。父為房の姉妹に中宮璋子の母光子がいたことと、その政治的力量により昇進したものだった。同日に同母兄為隆は参議に補任されている。翌保安四年一月二八日に顕仁親王が即位(崇德天皇)することをにらんだ体制整備であった。
 一二月一九日に為隆、顕隆兄弟がそれぞれ慶賀の挨拶を行っている。為隆の前駈をつとめたのは異母弟国隆・朝隆と子である憲方・光房(同母)と憲光(異母)、並びに娘聟源師隆の六人であった。これに対して顕隆の前駈を行ったのは娘聟である藤原清隆(顕隆娘はその後同母弟朝隆に再嫁し、一一三五年に朝方を産んでいる)と藤原忠隆(顕仁親王乳母夫)、異母弟親隆(朝隆同母弟)、子である顕頼・顕能、顕頼の妻の父源雅職(東大寺別当となった顕頼子顕恵が一一一六年誕生)、娘聟俊忠の子忠成(母は藤原敦宗娘)、藤原家保の長子家長である。
 顕隆娘は当初藤原家政との間に雅教等を産んだ後に俊忠に再嫁し、豪子、俊子を産んでいる。年齢的には俊忠長子忠成よりやや下で、忠成の子昌雲は顕隆娘を継母と呼び、継母が顕隆から譲られた長門国向津奥庄を譲られていたことは前述の通りである。家長と顕隆の直接的関係は不明だが、雅教の子雅長が後に家長の娘を妻としている。
 顕隆の前駈を行ったのは本ブログで使用する「待賢門院・崇徳流」の関係者である。それ以外の関係者である平忠盛はその姉妹が清隆との間に隆盛を産み、忠盛の後室宗子(池禅尼)の母は、待賢門院・崇徳流の構成員である日野資光とその娘聟資憲と深い関係にあった。なお、顕隆は大治三年一一月一四日に崇徳の同母弟雅仁が親王宣下を受けた際にはその勅別当に補任され、翌一二月の待賢門院庁牒では源能俊、三条実行に次ぐ三番目に署判を加えている。四番目の署判者は女院の同母兄德大寺実能(兄通季は死亡)であった。

 

2021年1月11日 (月)

一月の近況

 院政期国司表の作成をしており、それに関連して気付いた際にのみ、ブログ「中世史」に投稿している。時には五味文彦氏にもメールを送り、たまに返事をいただいている。この問題について議論できる人が他にいないのは問題だが、五味氏は三五年以上前の作業にもかかわらず、的確な返事をされる。是非ともこの作業を終えて公開できればと思う。
 新型コロナウィルスの新規感染者数の東京分について、本日は1219人で、月曜としては最多だが、昨日の1494人を下回っている。ただし、東京都のサイトでは検査数が1月7日までしかアップされておらず、現時点での評価はできない(検査数は一〇日と一一日を合計しても5700で、九日の7500より少なかった)。夜の飲食街や観光地などはかなり人出が減ったが、平日の出勤者など日常では余り減っていないようだ。いずれにせよ、現実に即した対応が求められる。0か100かではないのである。GO TOトラベルが良い政策ならそれをまねる国が出てくるが、実際には無駄の多い政策なので、収入が減少した人への給付がピンポイントで行われなければならない。日本の経済・財政状況は先進国で最低なので、全国民への再給付はメリットよりデメリットが大きい。
 スポーツでは高校生のラグビーとサッカー大会は無観客で行われたが、大学ラグビーの決勝は制限はあるが、チケットを購入した人の入場を認めた上での開催となった。ニュージーランドでは第一波が収まった後、北島オークランドで一人の感染者が確認されるとすぐに、南島を含めてスポーツイベントを中止とした。そのため気温が下がった冬季の感染を抑え込むことに成功した。NHKのサイトによるとこれまでの感染者数は2222人にとどまっている。隣国オーストラリアも28614人である。これに対して南アフリカでは123万人台で、南半球ではブラジルの810万人台に次いで多い。年末に感染者が増加した韓国では最近は600台と落ち着いている。これをみれば日本の感染者数の増加は政府の無策・無能による人災であることは明らかである。何度も言うが、現在の自民党と公明党の連立政権は他よりよいのではなく、最低の政権なのである。外国からの入国禁止が見識のない首相の意向で骨抜きにされたり、緊急事態宣言を求める都道府県の要請が、「しばらく様子を見る」ことになってしまっている。とりあえずコロナ対策だけでも内閣から切り離し、超党派の国会議員による委員会を作り、そこが厚生労働省などの関係省庁を指揮して行うようにする必要がある。誰がコロナ対策で有能なのかは国会議員の間では周知の事実であろう。
 囲碁の国際戦で四年の一度行われる応氏杯の準決勝の第一局が行われ、日本の一力九段は初戦で優勢となりながら、持ち時間の独特のルールのため、敗戦となった。一般の国際棋戦のように秒読みがあれば、勝利した可能性が高かったと思われるが、日本の棋士は持ち時間の短い棋戦への対応で遅れをとっている。第二局も持ち時間への対応がカギとなる。序盤、中盤で優勢な碁を勝ちきるのはただでも難しい(第二局も時間不足から逆転され敗退)。
 ラグビーの大学選手権は自力に勝る天理大が早稲田大を圧倒した。早稲田OBの今泉氏が準決勝直後に母校が優勢であるとのコメントを述べていたのにはあきれてしまった。1986年の日本選手権では慶応大がトヨタ自動車に18対13で勝利したが、トヨタのスクラムがレフリーに反則とされ、十分なスクラムが組めなかったことが原因であった。今回もこのようなことがなければ、大差で天理大が勝利することは誰の目にも明らかであった。天理大は体力面で上回るだけでなく、フィットネスも十分であった。明治大との試合でもすぐに立ち上がってプレーし、グランドに倒れている選手が多かった明治大を圧倒した。いわばオールブラックスのようなチームである。南アフリカはパワーと攻撃力に定評があるが、試合の後半で息切れすることがあった。2019年大会の南アはそれを克服し、最後まで動きが衰えなかった。
 ちなみに、当時の慶応の監督は慶応大とトヨタ自動車ラグビー部OBの上田昭夫氏であったが、社内で微妙な立場となり、間もなく退職してフジテレビキャスターとなった。併せて慶応大監督も退任した。氏は卒業後東京海上火災に入社したが、競技生活を続けるためトヨタ自動車に転職していた。日本社会のおかしなところである。

源仲政をめぐって2

 天承元年(一一三一)一一月一七日に大殿忠実が関白忠通と中将頼長を伴って参院しているが、その際の前駈六人の中に下総守盛邦がみえる。盛邦に関する大半の史料は名前だけであるが、『本朝世紀』仁平三年一一月二一日条の死亡記事には「前下野守源盛邦卒」とあり、源姓だということがわかる。ところが、『国司一覧』と五味氏作成の表には下野守源盛邦は記されていない。「前下野守」が「前下総守」の誤りという意見もあろうが、『台記別記』仁平元年一一月一五日と『兵範記』仁平三年九月一八日条にも前下野守とみえている。問題は盛邦の下野守在任期間であるが、藤原親通と相博する形で保延元年に下野守となり、その後任が藤原資憲であったと思われる。
 『国司一覧』と五味氏の表には見えないが、この時期の下野守として藤原南家季綱の子で、常陸介知通の父である尹通がいる。『尊卑分脈』の尻付には「使策蔵左衛門佐中宮大進正五位下安芸、下野守、母若狭守通宗女、保安三四二卒、四十三」とある。尹通の安芸守在任は天永元年正月から元永元年正月までで、これに入れ替わるように、元永元年正月に嫡子尹経(知通の弟ヵ)を阿波守として知行国主となった。尹通については「藤原尹通について」述べたが、下野守関係史料は確認できなかったとした。尹通は保安元年正月に安芸国の解由状を提出し功過を受けている。『中右記』で記主宗忠が批判しているように、提出書類には不備があったが、白河院から不備を補うようとの命が内々に出され。公卿会議での功過が終了している。これにより、尹通は再度の受領補任が可能となった。一次史料上で確認できるものはないが、元永二年正月補任の清原広美の後任として下野守に補任されたが在任中に死亡した。そして尹通の後任として起用されたのが元下総守源仲政であった。結果として、清原広美、藤原尹通、源仲政の下野守在任期間は短かった。保安四年一一月一日以前の源仲政退任から藤原親通が補任される大治二年正月までの下野守は不明である。そして最初に述べたように、親通と相博する形で下総守源盛邦が下野守となり、その後任が藤原資憲であった。
 以上のように、藤原尹通(嫡子尹経を国守として阿波国知行国主となったが、在任中に死亡。尹経はその後石見守に遷任したが、在任一年で退任。おそらく死亡したと考えられる。その後任が人々に驚きをもって迎えられた卜部兼仲であった。阿波国は白河院分であり、石見国も同様であったと考えられるが、大治四年七月には白河院が没したこともあり、尹経から兼仲に交替した時点では待賢門院分国となった。)が下野守となった時期を明らかにし、源仲政(仲正)は下総守(介)を退任後、藤原尹通が死亡したため、その後任として短期間ではあるが下野守を務めたこと、さらには源盛雅も藤原親通と相博する形で、下総守(介)と下野守を歴任したことを明らかにした。
追記:一部の書き間違いを修正した。

 

源仲政をめぐって1

 「源頼政をめぐって」の記事で父仲政について以下の様に述べた。
仲政は堀河天皇蔵人(『中右記』嘉保二年六月二〇日条)、皇后宮大進(『殿暦』天仁元年五月一七日条)、下総守(『中右記』元永元年二月五日条)を歴任し、保安四年一一月一日には「前下野守源仲正随身」が源義親と称する者を捕らえている(『百錬抄』)。
 現在、五味文彦氏の研究成果に基づき院政期国司表を作成する中で、再検討する必要が出てきた。それは下総守と下野守を歴任したのではなく、一方のみではないかというものである。多くの史料には「仲正」とあり、下総国の時点では気付かず、下野国をみる中で仲政の事だとようやく気付いたところである。
 『大日本史料』第三編二五冊では追討後の源義親に関する情報として『中右記』元永元年二月五日条(下総守源仲正)と『百錬抄』保安四年一一月一日条(前下野守仲正)を並べて載せ、後者については「総ヵ」と注記して、下野守であったことに疑問を呈している。『国司一覧』も同様である。『源平盛衰記』では「仲政兵庫頭下総守」とあり。『尊卑分脈』には「下野守従四位下兵庫頭」とある。これに対して五味氏作成の表では「下総国」では中右記の仲正について「下野の誤か」とされ、百錬抄の記事を併せて仲政が元永元年までに下野守に補任されたとされている。五味氏は全国のデータに基づき、史料の空白を埋める作業をされているが、結果としては『国司一覧』と正反対の説を採用された。ということで情報を再度整理したい。
 国司には名前のみで在任時期が不明なケースも珍しくない。下野守といえば源頼朝の父義朝が補任され、その後の台頭につながったポストでもあったが、下総とともに関係史料は乏しく、長期間、国司の名前が不明なことも珍しくない。
 『中右記』には源仲正が前年から常陸国へ越境して常陸国住人を搦め取ったことが記されている。下総だけでなく下野も常陸と国境を接しており、可能だが、そうすると天永二年正月に下総守に補任された紀久実から大治二年正月補任の藤原茂明までの一六年間は見任する国司名を記した史料すらないことになる。下総守と下野守の両方を歴任した人物として藤原親通と源盛邦がいる。親通は師輔の子為光流伊信の子で、両国司の前に山城守を歴任し、その子親方と親盛も下総守に補任され、平氏政権との関係を強めた。盛邦は前述の和泉守源長季の曾孫で、系図には名前のみ記されている。父盛家は摂津守、兄弟盛定は関白忠通勾当をつとめるなど、摂関家とのつながりを持ちつつ受領となっている。

 

2021年1月 7日 (木)

常陸介藤原実宗

 嘉承二年(一一〇七)に常陸介(親王任国のため受領は介である)に補任された藤原実宗について、『大日本史料』にはその父である資宗の出家の記事で系図(北家実頼流)を載せている。資宗には「摂津守」と記され在任が確認でき、実宗には「常陸守」と記されているが、一方『茨城県史』には魚名流藤原定任の子実宗の系図を掲載している。こちらは常陸介とともに能登守、肥後守を歴任しているとあるが、一次史料では確認できるのは肥後である。ただし、父定任については『春記』長久元年(一〇四〇)四月一日条に前司とみえ肥後守在任が確認できる。系図では筑前・肥前・伊賀・大和守と記されているが、在任が確認できるのは伊賀、大和、肥後守である。ふたりとも時代的には矛盾がないようだが、いずれであろうか(前者の実宗は陸奥守在任中の康和五年一〇月四日に没している=中右記同日条。康和五年二月三〇日の除目について『殿暦』には高階能遠が陸奥守に補任されたと記すが、『本朝世紀』が記すように常陸介であった。この点と2ヵ月後に能遠が常陸介を辞退したことと関係があるかは不明である)。
 『今鏡』には著名な医師雅忠のもとを常陸介実宗が訪ねた際の様子が記されているが、いずれの実宗であるかの決め手を欠いている。『拾遺往生伝』には高階敦遠室が天永二年(一一一一)七月一日に死亡した際に、常陸介実宗の後房(妻ヵ)字肥後内侍が見た夢について記されている。両者とも『大日本史料』に収録されているが、『茨城県史』にはともになく、代わって『詞花和歌集』に収録された大皇太后宮肥後の歌と詞書が掲載されている。二人の肥後(女性)は同一人物であろう。となると、嘉承二年補任の常陸介実宗とは肥後守補任経験のある後者であることになる。
 詞書には常陸介実宗に対して大蔵省の使者が厳しく追及したため、実宗は大蔵卿であった大江匡房に訴え、課税対象を常陸から遠江にきりかえることに成功した。すると肥後から悦びの気持ちと感謝を表す歌が匡房に届き、匡房も「心さし君につくはのやまなれは、はまなのはしにわたすとおしれ」と返している。匡房が大蔵卿に補任されたのは天永二年七月二九日で、一一月五日には七一才で死亡しており、時期を絞り込む事ができる希有な例である(当初は肥後の歌のみから実宗が常陸から遠江へ変遷したと解釈したが、遠江守の在任期間に実宗が入る余地がないので疑問を述べていた。『大日本史料』の匡房の死亡記事に関連して匡房の返歌とともに掲載されており、解釈を修正した。)。
 現在も院政期受領表の加筆、補訂作業を続けており、これが今年最初の記事となった。

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