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2020年12月31日 (木)

辞職と申任1

 本人が現任を辞して子などの関係者を申し任ずることはよくみられる。近臣の場合は、それほど間を置かずに新たな職を得る事が多い。一方、辞してからそれほど間を置かずに関係者が職に補任されることもある。同時でなければ「申任」とは表現されないが、実質的には同じではないか。
 ここで扱うのは院近臣として伊予(二度)・播磨・讃岐を歴任して非参議(修理大夫)公卿となった藤原基隆である。基隆の父家範は安芸・遠江・和泉守を歴任し、正四位下に叙せられ、公卿にならない貴族としては最上位まで進んでいた。その妻家子が堀河天皇乳母となり従三位に叙せられたことが、夫家範と子達が出世・登用された理由であろう。ただし、同母兄弟である基隆と家保の場合、堀河天皇の死後、明暗が分かれる。家保は大江匡房の養子となっていたが、出雲守退任後、新たな官職を得ることができなかった。基隆は当初家政と名乗り、後に基隆と改名したようだが(尊卑分脈)、改名の時期と祖父、父、外祖父とは異なる「基隆」という名に改名した背景は不明である。これまた背景は不明だが、勧修寺流藤原為房の子は系図で知られる六名の男子すべてが「隆」を付けている。
 基隆の計歴で辞職とあるのは①長治三年一一月に内蔵頭を辞したことと、②大治三年三月に大膳大夫を辞したこと、③天承元年一二月に修理大夫を辞したことの三例である。①の場合は翌一二月五日に子隆頼が三河守に補任されている。隆頼の三河守補任日そのものを記した記録は残っていないが、前任者藤原伊通が三河から備中に遷任した記録から判明する。②の場合は、子経隆が一二月二九日に周防守から出雲守に遷任している。経隆は基隆の嫡子忠隆の同母弟であり、隆頼は異母兄である。生年は不明だが、いずれも十代で、父基隆が知行国主であった可能性が高い。これに対して③は天承元年一二月二四日に嫡子忠隆が備中守から伊予守に遷任している。父の辞任から九ヶ月後で、且つ忠隆は鳥羽院近臣で伊予守に補任されるのは当然のことではあるが、異例であったのは同母弟経隆が讃岐守であったことである。これにより、院寵臣の指定席である播磨・伊予・讃岐三ヶ国中二ヶ国を基隆の子が占めるという異例の人事が可能となった。庶弟経隆は鳥羽院寵臣家成の子隆季が讃岐守に補任された保延四年一二月まで、二期八年讃岐守に在任した可能性が高く、次いで但馬守に遷任した。

 

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