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2020年12月13日 (日)

藤原顕能の子達2

 一一五七年一〇月には内裏造営に伴う勧賞が行われたが、重方は承香殿を造営した朝方(朝隆子)の譲りにより正五位下に叙せられた。一一五八年五月には三位に叙せら公卿となった親隆(朝隆同母弟)が中宮忻子のもとを訪れた際に権大進重方が取次を行っている。一一六一年四月の後白河院の東山御所御移徒の際には重方は皇后(忻子)宮権大進であるとともに、後白河院判官代であった。一一六七年一月二七日に女御滋子の役人が補任された際には右衛門権佐重方は職事に起用されている。その直後の三〇日の除目で重方は右少弁に補任された。四四才での起用は異例であるが、実務能力に長けていたのだろう。右大弁に補任されたのは時忠、左中弁は顕長の子長方であった。翌六八年九月には上西門院判官代であった重方の二男能頼が高倉天皇の蔵人に補任されている。能頼の異母(清隆娘)兄が重頼である。
 一一七〇年には四年前の兄基実の死により摂政・氏長者となった基房の子隆忠の元服に際して、権右中弁重方が家司に補任され、次いで一一七一年一二月に基房北政所の家司五名が補任された際にも重方が奉行を行っており、基房との関係がうかがわれる。一一七二年二月には藤原為親の死により重方が右中弁となり、一一七三年正月には上西門院嘉応元年未給により重方が正四位下に叙せられた。七三年六月に平時子が八条持仏堂の供養を行った際に、重方・重頼父子が参加していたのは前述の通りである。重方は一一七五年八月の関白基房政所下文には筆頭別当として署判を加え、重頼は忠通の娘育子(基房妹)の中宮少進となっていた。
 一一七九年三月に高倉天皇の娘で賀茂斎院となっていた範子の御所となっていた重頼宅が焼亡しているが、重方・重頼父子と高倉の母滋子の関係を背景としていた。範子は一時的に源有房妹(師行娘)である典侍宅(山槐記による。玉葉には有房宅とある)に渡御したが、有房の妻=通憲娘は範子の祖父成範の姉妹であった。重方は一一七九年一〇月九日には右大弁となり、翌年に五八才で出家している。
 顕能晩年の子と思われる顕方は多子の侍所別当や美福門院の別当を務める一方で、顕長の猶子となり、一一五七年一〇月の除目では顕長から兵部大輔を譲られている。以上のように、顕隆の子孫の間で緊密な関係が結ばれていた。また顕能の娘は藤原家政と顕隆の娘との間に生まれた雅教の妻となり、その間に生まれた雅長が顕隆の子顕長の娘を妻としている。

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