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2020年12月31日 (木)

和泉守源盛季とその一族

 二中歴に大治三年一月二四日の除目として、「和泉源盛季・使、甲斐藤原範隆・相替和泉」と記されている。醍醐源氏盛季が和泉守に補任されたのはよいが、藤原範隆が和泉守から甲斐守に相替ったのが相博と同義であるかが問題である。盛季には「使」とあり、前任の範隆が甲斐守に遷任した跡に検非違使枠で和泉守に補任されたと解釈できる。
 康和四年八月一〇日には「丹後・越前相替」(中右記)とあるが、これは丹後守高階為家と越前守藤原家保が相博したことを記している。保安二年一二月二九日には「遠江高階宗章〔十欠ヵ〕二月廿九日若狭相替」とある。宗章が若狭守から遠江守に遷任しているが、遠江守藤原為隆は若狭守に遷任しておらず、その子憲方が出雲守に補任されている。そして出雲守藤原隆頼が若狭守に遷任している。二国間ではなく三国間で交替がなされたものであり、これを単に宗章のみについて記した記事であった。二中歴に憲方と隆頼の記事もあれば理解は早かったが、それはなく、憲方については為隆の公卿補任と弁官補任の記事で確認できた。残る隆頼については父基隆の人事と連動していなかったので確認できないが、若狭守見任は確認できるので、保安二年一二月末に遷任したことは確実である。
 大治三年一月の人事が相博かどうかは、盛季の経歴を確認するしかない。盛季は淡路守や中宮大進を務めた盛長の子で、兄弟である盛家は摂津守、盛経は隠岐守補任が確認できる。その一方で三人とも摂関家家司や職事を務めていた。それは盛長の兄弟盛雅も同様で、忠実の職事となる一方で、上總介、伊豆守、尾張守に補任されている。盛雅のみは三ヶ国の補任が確認でき、上国で従五位下相当の尾張守に補任されている。盛家が国守に補任された摂津も上国であるが、その他の和泉、伊豆、隠岐、淡路は従六位下相当の下国である。上総国そのものは従五位上の大国であるが、親王任国で次官である介は正六位下相当である。これに対して問題となっている甲斐国は上国であり、和泉守から甲斐守への遷任はあっても、その逆は知行国主が存在するなど特別な理由が無い限りあり得ない。
 醍醐源氏の盛雅、盛長兄弟とその子達の動向は摂関家関係者の日記にしばしば登場するが、『尊卑分脈』では名前のみで、任官歴はほとんど記されていない。系図にのみあって日記などの一次史料では確認できないというケースが普通だが、この場合は逆である。盛雅の子盛行は受領補任歴はないが忠実の家司として活動する一方で左兵衛尉から検非違使に補任され、待賢門院判官代となり、女院女房津守嶋子を妻としていた。永治二年正月に得子を呪詛したとして土佐への処分となったが、後に都へ帰ることを許され、仁平二年三月に死亡したことが本朝世紀に記されている。盛行の子として尊卑分脈に記されているのは親行のみであるが、永久四年正月二八日には正六位上左馬允源盛行が前例に準じて左馬允を子盛賢に譲ることを申請している(除目大成抄)。藤原重方との間に能頼を産んだ上西門院官女の父前帯刀源盛賢(尊卑分脈顕隆孫)と盛行の子盛賢は同一人物であろう。系図には官職どころかその人物が存在した情報すらみえないが、実際には盛行の子孫は生き延びていたことがわかる。
 これまで述べてきたように源盛季の甲斐守補任は確認出来ず、範隆は源雅職の後任として甲斐守に補任されたと考える。

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