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2020年12月31日 (木)

辞職と申任2

 なお基隆の嫡子忠隆は康治二年に大膳大夫を辞して子基成を陸奥守に申し任じ、久安五年一〇月には大蔵卿を辞して子家頼を長門守に申任じている。
 基隆が内蔵頭、大膳大夫、修理大夫を辞任したのは子隆頼・経隆・基隆を申任ずるためのものであったが、辞任と補任との間にタイムラグがあったため、公卿補任基隆の項には「申任」との記載はなされなかった。なお、基隆には雅隆という子(忠隆、経隆と同母)がおり、分脈には「陸奥守」とあるが、補任されたのは基隆どころか忠隆も死亡した後の保元二年八月であった。九月一九日には雅隆が鎮守府将軍に補任されるとともに、陸奥に赴任した賞として加級されて従五位上に叙せられている。雅隆は甥(忠隆の子)信説が武蔵守に遷任した後任となった。武蔵守は忠隆流の中心となっていた信頼であったが、信頼は弟信説を国守として武蔵国知行国主に格上げされた。次いで翌保元三年二月には信頼が参議に補任されて公卿となり、五月には陸奥造営賞として従三位に叙せられている。叔父である陸奥守雅隆の賞を譲られた形でとの評価も可能だが、本来なら前年一〇月に行われるはずのものであった。ところが八月に信説から雅隆に交替したことで棚上げされていたものであろう。信説が信頼知行下の武蔵守となっており、三年五月に陸奥守信説への勧賞を信頼に譲る形で決着したものであろう。
 以前は、元木泰雄氏の説を検討する形で信頼の知行国について述べたが、結論的には保元二年正月に信頼の弟(母は不明)信家が国守となった長門国と、同年八月に同母弟信説が国守となった武蔵国の二例であろう。長門国は忠隆の知行国として信頼の同母弟家頼が国守となった(1149.10.19)が、翌年八月には忠隆は死亡した。同じく忠隆の知行国土佐の国守であった信頼は、忠隆の死(8.3)の直前(7.28)に武蔵守に遷任していた。忠隆の死を受けて両国とも国主なしに移行したのだろう。信頼は一八才、家頼はさらに若年であるが、母の同母兄で従四位上右中弁の地位にあった二七才光頼のサポートを受けたと思われる。同母弟信説は信家とともにその名に頼を付けていないが、信説は母の兄弟説頼との関係がうかがわれる。

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