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2020年12月13日 (日)

藤原顕長について2

 保元元年一〇月に中宮(忻子)亮となったのは忻子の実家である德大寺家との関係が背景にあった。翌二年一〇月には清隆の子隆能の造営功を譲られ、従四位上に叙せられ、その直後に木工頭となると、兼ねていた兵部大輔を甥顕能の末子で猶子としていた皇后宮(呈子)権大進であった顕方に譲っている。三年正月には中宮御給で正四位下に叙せられ、四月には四一才で蔵人頭となり、次いで二条天皇即位前日の八月一〇日には参議に補任され公卿となった。これは後白河との関係ではなく、忻子とその父德大寺公能との関係が背景であろう。公能は娘忻子の入内後、右近衛大将をへて保元二年八月一九日には権大納言に昇進していた。その翌月二日には公能の父実能が死亡している。公能は娘である大皇太后多子が永暦元年正月に二条天皇のもとへ再入内したことで同年八月には右大臣に補任されたが、翌応保元年八月に四七才で死亡した。嫡子公能(顕長娘を室とする)も中納言に進んでいたが、なお二三才であった。実定は長寛二年には権大納言に進んだが、翌年に二条天皇が子六条に譲位後死亡すると昇進は容易ではなくなり、翌年に権大納言を辞して正二位の位階を得たが、その後一二年間は散位のままであった。
 顕長も長寛二年正月には権中納言に補任されたが、その後の停滞し、永万二年六月には兼務していた左衛門督を辞して、外孫(娘と公能の間に生まれた)公綱を左衛門権佐とし、次いで八月二七日には権中納言を辞して子左少弁長方に右衛門権佐を兼ねさせている。保元四年二月に補任された皇太后宮(忻子)権大夫の地位には変化はなく、仁安二年(一一六七)正月に従二位に叙せられたが、新たな官職を得ることなく、同年一〇月一八日に出家し、死亡した。
 以上のように、顕長は父顕隆がその基礎を整備した待賢門院-崇徳院流の枠組みの中で活動し、保元の乱後も、德大寺家との関係で、非後白河院派=二条天皇派であった。国司表の作成が三河国で一時停止したが、その作業に戻りたい。

 

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