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2020年12月13日 (日)

藤原顕能の子達1

 顕能は顕隆の子で、顕頼の同母弟であったが、保延五年(一一三九)に三三才で死亡した。その長男であるのが頼佐で、康治元年には若狭守兼新院(崇徳)判官代であった。藤原保実(閑院流公実の弟)の孫公信の後任の若狭守となり、次いで康治二年には高階泰重と相博して阿波守に遷任したが、久安三年正月の除目で後任の藤原保綱(公信の孫)と交替し、一一五五年までは生存していたが、任官は確認できない。保綱の父実清が崇德院の側近であったことは前述の通りである。
 頼佐はその名から顕能の兄顕頼の庇護下に入り、崇德院との関係が深かった。頼佐の弟重方もまた顕頼の娘を妻としている。重方は没年時の年齢から一一二四年生であり、蔵人右近将監であった康治二年四月に叙爵している。頼佐は若狭守補任時(推定一一四〇年)には叙爵していたはずで、三才程度年上であったと思われる。重方は受領ではなく中央の官職を歴任するが、その一方で散位であった一一四八年八月には近衛天皇に入内した多子の政所別当となっている。多子は德大寺公能の娘で、頼長の養女となって入内した。公能の母は顕隆の娘で、公能の妻=多子の母は俊忠の娘であった。一一五〇年一二月の除目では宮内少輔に補任されている。一一五二年三月には前斎院=統子内親王御給で従五位上に叙せられている。この時、顕頼の子成頼(一一三六年生で、重方より一二才年下)は姫君(暲子内親王)御給で正五位下に叙せられている。
 一一五三年九月に従二位に叙せられた参議兼左近中将師長が前斎院統子のもとに慶賀に訪れた際には職事宮内少輔重方が取次をしているが、その一方で重方は鳥羽院判官代で、その際の同僚が平時信の子散位時忠であった。時忠の異母妹滋子は顕頼の娘祐子と時信との間に生まれ、後に統子=上西門院女房をへて、建春門院となった。
 一一五五年一〇月には公能の娘忻子が後白河天皇の女御として入内し、家司が補任されているが、その中には大舎人頭高階家行とともに前阿波守頼佐、宮内少輔重方がみえる。ともに待賢門院と崇徳院、統子内親王との関係を有していた。保元の乱後の一一五六年一〇月には忻子が中宮となり役人が補任されているが、その中には中宮亮顕長(顕隆子)、権亮実定(公能子)、大進頼憲(憲方子)とともに、権大進には重方と長方(顕長子)が、少進には為清(家行子)、権少進には惟頼(頼佐子、元勾当)がみえる。

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