koewokiku(HPへ)

« 新型コロナ感染状況 | トップページ | 辞職と申任1 »

2020年12月14日 (月)

藤原範季の花押

 藤原範季は日野資憲の娘と平教盛との間に生まれた教子を室とし、平家の都落ち時に都に残された高倉院の第四皇子尊成を養育していたこともあって、尊成が鳥羽天皇として即位すると、教子との間に生まれた重子が天皇の後室に入り、守成(順徳)を産んだ。重子は範季五三才時の子であり、長男とされる範時とは一六才離れており、教子は範季の後室であった。
 範季は建久八年八月に重子が守成親王を産んだため、一二月には従三位に叙せられ公卿となった。そのため建久一〇年四月 日には揖屋社領家として政所下文を発給していた。当然、政所下文に範季の花押はないが、中野栄夫氏が「元久二年四月の淡路国司庁宣に見られる花押について」(法政史学43、1991年)の中で、当該文書の袖判が知行国主範季のもので、奥上判がその子ないし孫範周のものであることを説いている。
 範周は範時の長子範時の子(系図)とも舎弟(公卿補任)ともされるが、元久元年正月一七日に東宮学士兼式部権少輔であった範時が淡路守を辞して範周に譲っている。そして範季が五月(公卿補任は翌二年正月とするが誤り)一七日に死亡したため範時は喪に服し、八月一六日に復任している。
 重子の同母弟範茂は承久二年正月に参議、次いで六月には従三位に叙せられたが、承久京方で処刑された。一九才年長の異母兄範時は承久元年正月に従三位に叙され公卿となり、乱後の貞応二年八月に出家している(死亡日は不明)。処分も受けておらず乱には無関係であった。
 前置きが長くなったが、中野氏の論文には寿永3年二月七日後白河院庁牒(平安遺文4128、早稲田大学所蔵)に別当として署判している「式部権少輔藤原朝臣」(範季)の花押と対比して、「庁宣の花押は損害が甚だしいが、残画から見る限り、一致すると見て差し支えないであろう」とされた。ただし、当方がみるところ、似てはいるが、範季ではなく子範時の花押である。範時の花押は建仁元年七月日と建暦二年二月日の後鳥羽院庁下文(九条家文書、熊野速玉神社文書)で確認できる。知行国主の資格については微妙だが、自らが辞して関係者を申任じた場合は辞任した本人が知行国主となることが一般的である。範季は外孫守仁が即位した際の贈官を考えて、出家せずに六六才で死亡した。範時が淡路守であった際は範季が国主であったが、花押により、元久二年正月一七日時点の国主が範時であったことが明確となる。なお『花押かがみ』の比定は刊行後でも訂正され、それが「花押カードデータベース」に表示されるが、当該花押は範季、範時いずれのものともされていない。
 中野氏は当方が学生時代に編纂所に内地留学で来ておられ、研究会や五味文彦氏主宰の『吾妻鏡』輪読会で同席したこともあってなつかしいが(ドイツ人留学生某氏、お茶の水(五味氏の勤務先)の学生さん二名、大学同級の山田邦明氏と一緒に編纂所前で撮影した写真がある)今回の研究ノートの短文は詰めが甘いといわざるをえない。

« 新型コロナ感染状況 | トップページ | 辞職と申任1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 新型コロナ感染状況 | トップページ | 辞職と申任1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ