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2020年12月12日 (土)

三河守藤原隆能について

 久寿二(一一五五)年一二月二九日に三河守藤原顕長が三河守を辞して、子長方を丹波守に申し任じた。実際には長方はこれに先立ち九月一二日に丹波守に補任されている。丹波守成兼が死亡したため、長方の補任が先行し、その後顕長が三河守を辞した。問題は後任の藤原隆能はどのような人物であり、顕長の関係はどうかである。
 隆能は一一五四年に鳥羽金剛心院の扉絵を描いて正五位下に叙せられ、三河守に補任される前に主殿助から主殿頭(従五位下相当)に補任されていた。保元二年一〇月には内裏の造東廊賞を隆能から譲られた顕長が従四位下に叙せられている。隆能と顕長の間にはどのような関係があったのだろうか。隆能は藤原清隆と高階為行の娘との間に生まれたとされ、直接の関係はうかがわれない。
 成兼時代の丹波国は德大寺実能の知行国であり、それが顕長の知行国となり子長方が国守となった。相博する形で三河国が実能知行国となり、清隆の子隆能が三河守に補任された。五味文彦氏は九月一二日時点で三河国は実能知行国となったと解釈されている。清隆と実能との関係も問題となる。隆能は一一二七年に蔵人に補任されている。清隆と平忠盛との間に生まれた隆盛は二男とされるが、一一三〇年に13才で蔵人から叙爵しており、隆能は隆盛の異母兄であろう。
 顕長は顕隆と村上源氏顕房の娘との間に生まれているが、顕長誕生の24年前に顕房は死亡しており、顕長の母は顕房最晩年の子であろう。顕房流は兄俊房流が永久の変で輔仁親王とともに失脚すると村上源氏の中心となった。顕長は藤原俊忠の娘とともに異母兄顕頼の娘も妻としている。顕隆と俊忠が待賢門院-崇徳流の結節点であったことは前述の通りである。
 顕隆には実能の室と清隆の室となった娘がおり、後者は清隆の後に顕隆の異母弟朝隆の室になり、一一三五年に朝方を産んでいる。清隆は正室家子との間に光隆、定隆、頼季、清成、通成をなしたが末子通成は藤原経宗の養子となっている。経宗の室も清隆の娘であった。
 一一六五年に備前国は藤原邦綱の知行国となり、国守には隆盛が補任された。これは清隆の子隆盛ではなく、隆能の子隆成である。次いで一一七三年には邦綱知行の備前国の国守には清隆の子時房が補任された。邦綱の祖父盛綱の姉妹が清隆の母であり、邦綱の父盛国の姉妹が清隆の叔父隆重の室となっている。時房は待賢門院女房小丹波を母とし、待賢門院の甥公能の養子となっている。清隆の末子であろう。
 以上の様に、清隆と顕隆、德大寺実能との間の関係に基づき、その子達との間にも関係が結ばれた。清隆の子隆能が実能知行国三河の国守となるとともに、その造営賞を顕長に譲った。この関係の背後にも藤原顕隆がいた。

 

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